吉川弘文館「人物叢書」出版記念講演
 

日  時:2002年 11月 20日(水) 午後7時〜9時
講 師: 大阪大学名誉教授  梅昇 氏 

面白きこともなき世に面白く
 熟塾での適塾研究をご縁に9年前から慕末前後の様々を伝授いただいている梅渓先生のライフワークのターゲットは、世に知られた幕末の風雲児”高杉晋作"亡くなられた奥様との約束を果して、梅渓先生の50年がかりの研究の成東が、吉川弘文館からの人物叢書シリーズ「高杉晋作」として世に産声あげた。著書を広げると、多くの史料から浮き彫りになる、幕末という時代の変換期を流星のように煙めきながら29年の生涯を燃焼して生きた高杉晋作の軌跡が、多くの資料とともに克明に描かれている。

当日は、参加者の自己紹介後に、梅渓先生を囲んでの高杉晋作談義に花が咲いた。
梅渓先生は、目本では伝記を書く人の評価が低く、若い人の伝記離れが著しい事を憂い。歴史を正しく後世に伝えるためにも伝記研究は不可欠であることを力説された。梅渓先生が、高杉晋作に興味を持ったのは、シベリア抑留後復員後、自らの戦争体験を下敷きに、庶民が銃をもった奇兵隊に注目し書き始めた。激動の幕末に多くの人材を育てた私塾として、高杉を育てた松下村塾と適塾がよく比較されるが、吉田松陰の教えは政治的なカラーが強く、福沢らを育てた適塾は緒方洪庵がオランダ語をもとに西洋の医学・事情を教えていたので、性格がまったく異なる両塾を論じるには限界があるとの事。
高杉が生きた幕末、強本弱末主義を唱えたのは、徳川幕府に近い水戸藩で、幕府(=本)を強くし守るという意味だったが、外様の長州藩などでは強本弱末主義が、天皇(=本)を守り幕府を倒す尊皇接夷論に転じていっ牟。長州藩は関ヶ原で負けたが、藩の立場や弱くなっても、家臣をリストラしないで主従一丸となって巻き返しの機会をうかがっていた。毎年正月に重鎮が集まる席で、家臣が「(幕府を打つのは)まだ早うございますか」と訪ねると、藩主が「まだ、待て」と声をかけあうとともに、来る日の準備に備えていた。軍資金として、農民から年貢の取立てを強化すると氾濫が起こるので、倹約に努めるとともに、下関が江戸時代の幹線交通路であつた北前船航路の瀬戸内海から目本海にでる喉元であるという地の利を得ていたので、荷物を保管する倉庫業が盛んで、大阪の相場をみて売買するなど交通の要所として栄え、更に塩田開発などで、一般財政に頼らず特別財政で軍資金を蓄えていた。長州と組んだ薩摩は、密貿易を行い、琉球でフランス製の機械で似せ金を作ったりして資金を調達。薩長同盟で討幕に乗り出したが、両軍の雄、西郷と高杉が合間見えていたかが論争されてきたが、史料をどう探しても二人が面談した史料はない。高杉は「事に望んでは心が卑しくてはならない」という吉田松陰の言葉を大切にした。大胆な発想と行動カで幕末を駆け抜けていった風雲児、日本の一大事に臨み、命を掛けて
東奔西走した高杉晋作への興味は尽きない。



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