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■ 緒方洪庵と適塾
■ 開催日 1994年11月26日
■ 講師 大阪大学 梅渓名誉教授
■ 詳細
テーマ:緒方洪庵と適塾
講師 :大阪大学名誉教授 梅渓 昇 先生
日時 :1994年11月26日(土)午後1時〜4時
会場 :御堂筋サロン(講義後、適塾を見学)

<講義概要>

 緒方洪庵は、備中(岡山)の足守藩士の子として文化7年に生まれました。今、生誕地の足守市には、記念碑と像が建てられており、昔の風情を残した町並みが保存・整備されています。
 
  洪庵は、14才の時に置き手紙をします。洪庵は武士の子として生まれましたが、上には跡継ぎの兄がおりましたし、幼い頃より病弱で武士として不適であると考えていたようです。又、当時長崎でシーボルトなる有名な医者が新しい医術を教えていると、藩の先輩や同僚から伝え聞いていたであろう少年・緒方洪庵は、吹き始めた新しい時代の風や、武士の時代・封建社会の終わりを感じ、医者としての道を学ぼうと志を持ちます。16才の時に、父の大阪転勤に伴い大阪に来て、17才で中天遊に師事しました。中天遊は、オランダ語は読めませんでした。しかし、開国していた中国で既に活躍していた宣教師などの外人が自国の書物を中国語に翻訳し、やがて長崎に持ち込まれたそれらの中国語に翻訳された西洋の書物を、中天遊など当時の学者は学んでいました。洪庵は中天遊から中国語に訳された書物を学んでいましたが、中天遊は翻訳本ではなく原書で学ぷ事を洪庵に薦めます。今、中天遊の墓は、洪庵の立派な墓がある大阪の寺町・竜海寺に無縁仏の一つとして墓標が埋もれております。又、洪庵の墓の隣には、「死んでも先生の側にいたい」と言い残した大村益次郎の墓もあります。
 
  当時、江戸は将軍の下に大名が住み、力のある藩は新しい知識を得る為に洋書を買い集めて研究していましたので、洪庵は3年間江戸で学びます。その後、長崎に勉強に出ますが、岡山で紹介された縁談話を断る口実として「しばらく勉強したい」からと長崎に向かいました。長崎では、オランダ人の医者から学ぶのではなく同じ学力の3人が集まり、自学自習した様でした。当時の長崎奉行は、日本人が直接オランダ人と接する事を厳しく監督しており、調べると洪庵が長崎にいた時には、オランダ人の医者は来日していませんでした。オランダ人はキリスト教の布教はしない、ヨーロッパの情報を毎年教えるので、日本と交易したいと交換条件で江戸幕府との約東を取りつけていました。ですから当時、中国・オランダ以外の国とは、日本は接触しませんでした。
天保9年に、洪庵は大阪に戻ってきますが、大塩平八郎の乱で大阪の町は焼け野原とかしており、翌年、今適塾がある所ではなく、瓦町あたりに適塾を開き、弘化2年に現在の適塾がある所に移転しました。適塾は洪庵の号である「適々斎」から名付けられました。適々とは、自分の心に適っている道を押し進めていく。人から役せられず、即ち他の人から、お前はこうしろ、ああしろと言われないで自分の信じる所、自分のしたいと思っている所を伸ばしていくとの意味です。ですから、人の意見で、自分の意を失わないで進んでいくという一つの人生態度です。福沢諭吉が、自主独応、独立自尊と言ったのは、洪庵の考え方が影響していると思われます。悠々自適と言うと、山深い隠遁生活を連想しますが、福沢が言った「適々あに風月のみあらんや」とは、適々とは風月を楽しんでいるのではなく、人の中、塵芥のなかにこそ、適々があるのだと語りました。福沢は、人間は自分の
思う様にならない、けれども、そういう事にめげないで、自分の信じる道を進んでおれば、いつか自ら意の如になる。ですから適々と生きれば自分の生き方が貫徹できると言っています。適塾にも「適々あに風月のみあらんや」という福沢の軸があり、洪庵の印象の大きさを語っています。

  洪庵を支えた妻、八重さんは摂津の名塩の医師億川百憶の娘でした。名塩は紙漉きの里でした。紙漉きの技術は福井の杢野から本願寺の系統で伝わります・名塩にも御坊という本願寺系の寺がありました。名塩の紙漉きでは、少し泥を入れ、硬めの紙に仕上げ藩札用に便われました。当時、藩はぺ一パーマネーしか発行できませんでした。藩札には、3人の財政方の3つの印が必要で、名塩の紙は広く全国の藩札に便用されていました。八重さんの家柄は中流で、父は名塩の紙を大阪に卸していました。北浜の辺りにも、場所は定かではありませんが『名塩屋』があったようです。八重さんの父は始めは、紙を扱っていましたが、後に村医者になり洪庵も学んでいた中天遊に師事し、同門の洪庵に娘を嫁がせました。ですから洪庵は、宝塚から名塩を通って有馬混泉に行っており、中山寺等をよく通ったようでした。八重さんの実家の援助で、洪庵は長崎へ行きました。八重さんの父は、やり手で薬を作って・大阪や盛岡まで売り歩いていたようでした。八重さんは13人の子供を産み、洪庵の死後も食べて行ける様にと名塩に田地を買う等、しっかりとした生活設計を持っており、上手に適塾も切り盛りしていた様です。洪庵は筆まめで、260通ほど残っていますが、3巻目迄は現代語訳等もつけて整理できており、残りの88通の手紙の整理に今追われています。又適塾の解体の際に壁の中から、振り手形が発見されました。

  日本の銀行業務は、元禄時代から既にありました。江戸時代に、参勤交代がある為に道路網が整備され宿役制度も発達していました。現金を持ち歩かなくてもいいように、銀行業務が発達していたようです。その中に、米忠という酒屋の振り手形も発見され、塾生たちがよく酒を飲み、その徳利を実験用に使用したと、福沢の自伝の裏付けができました。
塾生達が、どの様に塾で過ごしたいたのかはよくわかりませんが、適塾の建物は、天王寺屋という商人の家を買い取ったので、塾生が寝泊まりしていた2階は、物置を改造した天井の低い部屋でした。特に夏は暑いので、フンドシ一つで住んでいた様でした。お金のある塾生は、大川筋に京都風の床のある家に移り住んでいました。

  多くの塾生のお風呂はどうしていたのか。八重さんはどこへ買い物へ行ったのか。天満の市場まで買い出しに行ったのではないか。女中は、何人いたのか。以前、藤本義一さんも出漬していただき大阪で作った適塾を描いた映画があります。塾生で一番若かく入塾したのは、橋本左内の16才で、23才で入塾する者もあり、少年から青年までが一緒に学んでいました。また、青森・沖縄を除いて全国から塾生がきていまいした。勿論、関西の西、山口等から来ている人が多い様でした。塾生は千人と言われていますが、姓名録には六百人程書かれており、名前を書いていない塾生も百人程はいたと思われます。塾生は、全国各地から集っているので、塾内で飛びかっていたのは方言ではなく、オランダ語の単語ではないかとは考えられます。司馬遼太郎さんとも『花神』を書かれる時に論議したのですが、話し言葉等は記録には残らないので歴史を解明する上で難しい問題となります。歴史の面白みは・記録として残っているものを研究するより、隠れた所を捜す事だと思います。残っている記録は、理由があるから残っているのであり、残されていないのは理由があって敢えて残されていないものもあるでしょう。ですから、隠された歴史を想像しながら楽しんでいただければと思います。例えば、オランダ語ではオッテンバールは「言う事を聞かない」日本語のおてんばの語源で、メースはマスターの意味で、適塾の中では、きっとそれらのオランダ語が飛びかっていたのでしょうから、自由に想像、創作していただいたら結構かと思います。また福沢の自伝にあるように、大村益次郎が女中のお松どんをふとんでスマキにして川に投げたと、あえて慶応の学生に言うほど気性が福沢とは合わなかったようです。事実、幕末を迎えて共に机を並べた塾生同士が、敵と見方に別れて戦う事もありました。官軍の大村益次郎は五稜郭で、抵抗する幕軍は全て殺せと指令しますが、高松凌雲や大烏圭介は幕軍側として応戦しました。是非、福沢の自伝をお読み下さい。適塾では、今の学生とは違なり、自学自習よく勉強した様子が描かれています。

  又銅座跡が、本日見学していただく適塾の側にありますが、日本の銅はごく一時期ですが長崎からオランダまで流れていたようです。シーボルトを初め、日本に来たオランダ人が大阪に来た時は銅座の宿泊設備に泊まり、角座などを見物にいっていたようです。かつて大阪の浪速橋の橋詰めに長崎の俵物回所があり、長崎からの船がたくさん行き来していました。ですから、船場は長崎に近く、長崎に近いと云う事は当時一番ヨーロッパに近かったのです。
本日は、適塾を見学されるとの事で、短い時間で概要をお話しました。次回は、それぞれのテーマを掘り下げて詳しくお話ししたいと'思います。

<適塾にて>

 梅渓先生とご一緒に、適塾の門を潜りました。玄関の土間を抜け、現在は受付兼待合室である教室を通ると、中庭があります。廊下をめぐると客問につづき、庭に面した客座敷があります。庭越しに裏に回ると家族部屋と納戸と台所から、急な階段を上がると女中部屋につづき、塾生が勉強する為に争って書き写した蘭和辞書、ゾーフが置いてあった部屋から塾生の大部屋が続きます。二階の開け放った窓から眺めた中庭の木の枝で、雀が飛び遊び、大阪市内の喧騒を忘れさせるような静かなただずまいですが、かってここに、新しい時代の息吹を求めて学んだ若者がいたのかと思うと、塾生部屋の刀傷の残る柱が雄弁に語り始めます。先生は二階にあがる時に、女中部屋の隣に、若い塾生が出入りしたゾーフ部屋があるのはおかしい。たぶん、今ゾーフ部屋と言われる所は、洪庵の家族の部屋であったと思われる。今参観する為に塾生大部屋に壁が開けられているが、女中部屋の隣が家族の部屋で・壁を隔てて塾生大部屋があったと思われる。そして塾頭がいた二階の小部屋で、福沢が夏の暑い日に女中さんが呼んだと間違って、すっ裸で八重さんの前に「なんだ」と飛び降りのが、今は通行止めしてある台所に続く階段ではないかと説明頂きました。その小部屋には、塾生の名簿があり、壁には福沢諭吉や大村益次郎等の著名な人の写真や肖像画が掛けられていました。その時、梅渓先生はそれらには目をやらず「適塾に学んだ多くの学生の内のほとんどが故郷に帰り、洪庵の金銭の多少を問わず人を看よとの教えを守り、無名の医師として地域医療に従事しました。更に調べると、人の嫌がる刑務所を回り罪人の治療に当った塾生もいました。いつの時代でも、時代を支えているのは、一握りの有名人だけはありません。多くの無名の人々が、時代を支えているのです。」と語られました。今、マスコミに取り上げられるかどうかで、内容を顧みることなくスターや有名人として有り難がる傾向があります。こんな時代だからこそ、スポットライトの浴びていない所で金銭に拘らず尊い汗を流して一心に生きている無名の人々の存在の大切さを認識する必要があります。又自分自身も現代を支える無名の礎として、一隅を照らしたいと思いました。『名も無く、貧しく、美しく』熟塾に集う私たちも、適々と生きて、時代を支える無名人としての生きざまを捜しえたいものです。

※解散後、星見・福井・小笠原・原田の4名で竜海寺の洪庵先生の墓に献花し、お参りしました。 (原田彰子)
                                

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