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原助の独り言




   2010年 6月21日(月)   闇の中の闇へ
こんな夜は、
あの人の声を聞きたなぁと思う。
ふっと、あの人がいたら思う。

随分と独りで頑張っている自分を破り捨てて
私はふんやりとした空気になり、
損得のこの世のしがらみをさらりと忘れて、
たた今を愛おしく思えた時間・・・

もう余力もなく、ただ、今をギリギリに生きている。

「ねぇ。あの人はどこに行きましたか?」
夜風にそっと聞いてみる。

闇がだけが、声をかけてきた。。
「あなたはもともと独りでしたよ。
ずっと独りですから・・・。」

走馬灯の淡い光が天井を同じ色に染めて回り続ける
あの逃げ場のない危うさばかりを
今に感じる。

私はここに今、います。

あの人は・・・闇に呑まれていましたか・・・
そのうちに、私も闇に呑まれましょう・・・。

はるか遠くに、夜の海の底なしの怒涛の奥の闇の中の闇に
安らぎがあるように思えるのです。



   2009年11月28日 (土)   奈良 當麻寺での紅葉狩り
今年も4回目の大阪ヌーボーが11月19日木曜日にどうにか終わってその週は朝方まで準備していて出社し160名の参加者数を数えどうにか無事終了でクタクタ。その週の三連休は家でパタンキュー!状態でしたが、このままでは今年の紅葉と出会えないと思い立ち、10年前当時塾生だった知人が、庭先を借りて夜に薪の明かりだけで、黒沢明監督の乱にも起用されNHKにも出演されるほどの横笛の名手を東京からお呼びして演奏をお願いしたという奈良の當麻寺が気になっていました。當麻寺へ行こう。朝ふっと思い立って紅葉に出会いにいきました。

JR久宝寺駅から柏原駅へいき、近鉄電車に乗り換えて道明寺駅経由「駒ヶ谷」駅前でチョーヤさんの本社を眺め、車窓から葡萄畑に立つ飛鳥ワインの看板を確認してまもなく、河内ワインのラベルになっている二上山を拝みました。二上山はラクダのこぶのような2つの頂上(雄岳、雌岳という)をもつ山で、奈良盆地東部の神体山・三輪山(桜井市)と相対する位置。二上山は、大和の国の西に位置し、夕陽が2つの峰の中間に沈むことから、西方極楽浄土の入口、死者の魂がおもむく先であると考えられた特別な山とのことで、今年は、熟塾で6月に奈良の東の三輪山を拝み、程よい高さの奈良の西にある二上山を眺めることができました。山は一目で全山を眺めることが出来、ちょうど秋の紅葉の風情に包まれていました。

二上山をバックに當麻寺がありました。京都はおせやおせやの賑わいなのに、来る人も少なく、東塔は奈良時代末期、西塔はやや遅れて奈良時代最末期から平安時代でデザインや建築時期の違いは若干あるものの、近世以前の東西両塔が現存する日本唯一の例として国宝に指定され、紅葉も見ごろだというのに、全く静かです。

拝観するのも、見学者が少ないので本堂で拝観料ををはらうと、お坊さんが金堂と講堂の鍵を開けに走りまわって途切れ途切れの参観者に対応するほどでした。お陰で金堂でも講堂の中でも、私一人。目の前の多勢の仏様に見下ろされると時空を超えて存在するそれぞれのお姿に心から畏敬の念を感じずにはいられませんでした。

西南院(さいないん)では西塔を借景に池の周囲を高低さがある庭を巡りました。その紅葉の大木がちょうど見ごろで、池にも庭にも紅葉の錦で一つの世界を描いていました。桃山期の名園で、古くから大和三名園に数えられてるのも頷けるほどなのに、紅葉まっさかりに人影がまばらでした。散策後、一人縁側から庭を見ながら秋の紅葉葉をモチーフにしたお茶碗で抹茶をいただき、寄せ書きにもゆっくりと筆を走らせました。飽きず眺める紅葉の庭園の見事さの中に、国宝のどっしりとした風格ある趣で建ち続ける西塔の雄姿は圧巻でした。

更に、仲之坊で拝観料を払うと一組の団体客がなだれ込み、そのままの流れに乗って奥の写経場に座るとご住職の国宝の當麻曼荼羅の4分の1の大きさの写しを前に、昭和30年くらいまでいた専従の絵解き師の、どこか覗きカラクリのような口調で、極楽浄土の様子を紹介いただきました。住職の身の上話では、両親が亡くなって、妻帯したものの子供を授からなかった前の住職に引き取られ小僧としてお寺で育ち、上にも兄弟子がいたのに、次の住職からこの寺を継ぐようにと導かれたお話も拝聴しました。

一緒に写経場になだれ込んだ団体は京都のお寺の檀家のバス旅行で、天井画にはは前田青邨など有名な画家の絵天井画広がっていました。一団は曼荼羅の阿弥陀様を写仏するというのですが、混ざってしまった私は受付で写経をしたいと申し出て中央の阿弥陀様を囲むお馴染みの阿弥陀様ではなく、左手の智慧の光を持って一切を照らし衆生が地獄・餓鬼界へ落ちないように救う勢至菩薩(せいしぼさつ)を写仏することにしました。

考えてみれば生まれて初めての写仏でした。ただ、筆で線をなぞるだけなのですが、意識を集中させ、仏様と対峙して1時間半。夕闇がせまるころに書き終えました。初めての写仏は上々の出来でしたが家に持ち帰ると粗末にするのでお寺にお納めし、携帯電話のカメラに収め、待ち受け画面として飾って毎日拝んでいます。

帰り道に、柿の葉すしを買い求め、駅前の中将餅のお汁粉をいただきました。甘くなく、小豆とほのかな蓬を練りこんだ御餅が美味でした。

當麻寺で半日を過ごした晩秋の紅葉狩り、奈良は近いのになんだか遠くまで一人旅をしたような気分でした。



   2008年 5月22日(木)   大阪に生きた聖徳太子を偲ぶ
5月10日土曜日、叡福寺の太子絵伝・修復完成記念特別展「聖徳太子」展に行った。
9時半から、14時まで、5時間半も大阪市立美術館の中にいた。
一人で行ったし、雨で午後からの用事もなくなったのでゆっくり見ようと、まったく時計の針を気にせずに、一つ一つの展示物の前にへばりついてみて回った。
まず、聖徳太子の人生を紹介する春夏秋冬の掛け軸の前で一つ一つ人生を辿った。
春に太子はどうしたのか。人生を春の舞台。夏の舞台と季節に区切って絵解きしている。キリストのように馬屋の前で生まれて、黒駒という黒い名馬と人生を共にして、富士山にも一夜しにして飛び上った・・・伝説の多い人で、時に太子は現存しなかったという説さえあるという。
吉祥の雲が現れたり、死を前に人魚が上がったり赤い蛇の下のような雲が現れたりと絵の世界を垣間見ている間に随分と長い旅をしているようにさえ思えた。
上の太子と呼ばれる墓所のある羽曳野の叡福寺・中の太子と呼ばれる野中寺、そして、下の太子と呼ばれる勝軍寺は八尾。自宅の近くにある。小学校のときは、下校途中の遊び場だったりしのだが・・・。

高校の時に、ラジオ大阪だと思うが、勝軍寺で生放送があり、放送部だったからか生出演したことがあった。真夏の昼下がり、汗だくだくになり、歩いていき冷たいお茶でもと出された冷茶がとっても冷たくてなお且つ甘露のようなお茶の味が記憶に深い。あれから、冷茶は飲むのだが、あのように冷たくて甘いお茶を飲んだことがない。そこで住職で、「八尾はシルクロードの通り道だ。」「河内弁の「われ」は宮中言葉だ」と熱弁を振るわれたことも記憶に残っている。

八尾に住んでいることで得をした思いはない。河内は柄が悪いとの印象をもたれるばかりで、今でこそ、開き直ったおばさんだからビクともしないが、若いときには娘心にとって快い響きを持った土地柄ではなかった。
第一、「悪名」という今東光という坊さんが彼を慕って集ってくる人々を面白おかしく書き連ね、挙句の果ては出世の踏み台にするように八尾を描き、そしてまさしく八尾に悪名という烙印を人々の心に焼き付けてさっさと去っていった。
最近、八尾市で今東光を顕彰する会を作ったという、なんで八尾を笑いものにした生臭坊さんを顕彰しなくてはならないのか!!
以前、印象だけで人を批判してはいけないと思って、今東光のエッセイを買って読んだ。しかし、色々ではなく艶々ではないかと思うほど、女性の事で書きつぶされていて、読むに耐えない。耐えないけど、相手を知らねばと思って我慢して読破したが、今でいうセクハラ発言の連続。これが僧侶が書いた文章かと、下品な生臭さに溢れたエッセイを堂々と出版する破天荒さに驚いた。今東光を絶賛し友人だっというある新聞社の元女性記者にお会いしたが、八尾市にこんな素晴らしい人を顕彰しなさいと提言したとの事・・・・・これにも閉口した。
八尾生まれでもない人に、土足で人の家に上がりこまれて、元来そこにあったものを絶賛されるのならいいものを、ただ出世の踏み台にされたような作品だけを置いていた人を顕彰しなさいなんて・・・・・。
八尾市の不甲斐なさに唖然となった。人に散々笑われて、言い返せないでいるから、いつまでたっても今東光が描いた悪名の世界がすべてだと八尾や河内は笑われ続けられなくてはならない。アメリカに住んでいる台湾の人と話をすることがあったが、「アメリカ人は私たちのことを黄色人種だと馬鹿にするのよ。でもねぇ。馬鹿にされたら、馬鹿にするなって言い返さないと、づっと馬鹿にされるのよ。」その人は、台湾の財閥の親族で随分と裕福なのだが、背筋の伸びた態度を取れば、相手だって付け込めない。毅然とした態度を取らないとアメリカは競争社会だから生きていけないのよとも言った。
人の言葉が印象的だった。八尾市は税金をつぎ込んで、なぜ顕彰するのか。顕彰される方も、だから八尾は馬鹿にされる・・・・としたたかにせせら笑っているようにさえ思えて歯がゆくてならない!!!

八尾を売名行為の踏み台にした今東光を顕彰するくらいだったら、何故八尾は聖徳太子を顕彰しないのだろう・・・・・。
NHKのドラマで「聖徳太子」が放送された。時代考証にはかなりの苦労があったそうだが、物部守屋と聖徳太子が戦った渋川の戦いが、八尾の勝軍寺の地であった。家からも近いし跡部という町に住んでいるが、跡部氏という物部氏側の側近が、住んでいたそうで、氏神様で七五三を祝った跡部神社とはその宮の跡らしい。とにかく、聖徳太子やら物部氏やらが右往左往して戦った古戦場の近くなのだから、なんだか古代ロマンの導火線に火が付くもだが・・・・一向に導火線を伝って大爆発をするような聖徳太子顕彰活動は生まれてはいない。

熟塾は偶然に、聖徳太子とであった。四天王寺の本坊をお借りできたのだ。一度考えたこともあるが、個人が本坊をお借りできるとは思わなかったが、塾生の中に前官長の知り合いがいて、借りれるか聞いてみようかと言われ、花見も兼ねて4月第一週目の土曜日にお願いし、その日が偶然十七条憲法制定から1400年目で、憲法の小冊子をいただいたので、声に出して読み上げた。原文と訳文かねて読み上げて15分。家で呼んでくださいと言っても目を通すことがないのではと思い。
読み上げた。声に出して読むと響きががよいばかりか、官僚自ら襟を正して人々の為に尽くせ!官僚への戒めと励ましの言葉が続く・・・。政治には、小さなことはともかく、大きな間違いがあってはならない。

人々は聖徳太子を1400年あまりに渡って忘れはしていない。お互いに凡夫である、だからよく話し合って国の治めていこうと志を立てて、口でいうばかりか十七条憲法という形として残されて、この1400年の間に、腐敗やだらくし時として庶民を苦しめた官僚に対し、時に官僚からも、聖徳太子のこの十七条の言葉をかりて、理想を語り「最近は賄賂を懐にする官僚が多いが、貧しき者の声を聞いて政治を執り行わなければならない」。そして、老人を路頭に迷わせ「後期高齢者」呼ばわりし、あなたは人生の後期だからという烙印を押すなんて・・・じゃ、百歳越したら、末期高齢者呼ばわりするのだろうか、長年国に税金を納め続けてきた人々に対して・・・・。弱い者や年老いた者も強い者と同じように生きている社会が、人間の社会だとしたら、強い者が弱いものを食い物にするのが「獣の社会」ならまさしく今がそうであり、官僚を生かすために税金は使われ、衣食住の最低の保証もない納税者が食い物にされていく。そして、その食い物は、いくら痛め続けられても声をあげない。国会議員がと期待するが、彼らは自らの保守を考え誰も声をあげない。そして、弱者はますます追い詰められ、食い殺されていく。

人生50年、夢幻の如くなり・・・秀吉が散り、太子が散った。死を予感した太子が宴を開き、妻と共に黄泉の国へと旅立ち、河内・叡福寺に埋葬される。その行列を見送った愛馬・黒駒も主の後を追うように死への道を駆けて行く。愛憎や権力争いの中にありながら、太子は、生きようとした。それも、権力あるものが支配する国ではなく、弱い者も、貧しい者も、幸せに生きていけるようと仏に願い、様々な人々は勿論、仏の声にも耳を傾け国を行きようとした。四天王寺の悲田院には、病気や年寄って行くあての無い者誰でもが身を寄せることができる施設があり、そこで最後の時を過ごしたという。聖徳太子は、仏教を以って国を造り、人々を幸せに導こうとした。1400年経っても、理想の国とはなりえていない日本。上が乱れると、人々の人心が乱れとんでもない罪科を起こす者が現れる。だから、リーダーは国は正しく国を治めなくてはならない。

その聖徳太子は、どこで活躍したか、それは間違いなく河内の国を中心としたこの大阪の地である。
そして叡福寺に聖徳大社は、今も愛する后と共に葬られているが、心は穏やかではあるまい。理想の官僚像を啓示した志とはかけ離れた物は豊かだが、心の貧しい時代を生きる多くの人々の嘆きの声がこの世に満ちているから・・・・・・。
聖徳太子展に行って、その威徳と、現代へのメッセージを感じ、その志を伝え続けた先人人々の思いの上に立ってみるのもいいのかもしれない。
聖徳太子展は6月8日までの会期だ。是非この展覧会に足を運んで、大阪の地に生き、今も日本人の心の中で生き続ける太子の思いと眼差しを感じて欲しい・・・。



   2007年 8月15日(水)   深堀編集長へ
この世の中で、私のことを「あきこ」と呼でくれる人がいなくなった。
彰子と呼んでいた父が20年前に57歳で他界した。父が亡くなった後、二階の部屋でレコードを聞いていると、父が「あきこ、うるさいなぁ」と娘の部屋を覗きがてらにその部屋の入り口に立っていたのを思い出しのだ。思いっきりボリュームを上げたが、「ねえちゃん。うるさいなぁ」と駆けつけたのは弟だけだった。あきこと呼んでいた父はもういないのだ。この家にも、この世の何処を探してもいない。あきこと父は幼い頃からどれだけ呼んだだろうか。あの聞きなれたちょっとかすれた声を、もう二度と聞くことは無い。
父が亡くなって間もなく、OL向けの御堂筋新聞のモニター募集という記事を目にして応募した。モニターにどういうわけか選ばれて、赤倉や越前や信州やらに大阪のOLとして旅をして記事を書いたりした。とバブルの時代も重なって各地に様々なホテルができ、各地の観光協会に顔の広かった深堀編集長と数名のOLと同行した。編集長は、親しくなると「ふみこ」とか「ゆかり」とか「さちこ」とか名前を呼んだ。時に、親しみをこめて肩に手を回したり、抱きしめたりする。セクハラは、相手が不快に思わなければ該当しないように、編集長の女性への声かけや、スキンシップは挨拶代わりで、旅館の女将さんから仲居さんに至るまで、編集長の女性への声かけは続き、不思議なことに初対面であっても不愉快な顔をした人を見たこと無い。日本ペンクラブの会員で、日本国中の温泉は入ったと豪語していたし、何度かその伝を頼って好みの宿にいった。母との最後の旅になった佐渡島でも、波が高くて船がでないのでもう一泊することになり編集長が紹介してくれた岬の先の露天風呂が優美で海が見えて、夜には佐渡おけさや太鼓を楽しむことができた。「あきこ、またお母さんと一緒かぁ・・・。お母さんもいいけど、たまに男と行ったらどうだ。」いい宿はないかと聞くたびにお母さんと行くというものだから、私も「編集長、誰か紹介してください。」というと「男と女はうまくいくときはいいけど、もつれたらややっこしい。だからその間には絶対入らないよ」といい逃れていた。とはいえ、沢山いたモニターも三十路をこえるとパタパタと結婚して残り少なくなる。「早く嫁に行け。行き遅れるぞ」といいながら結婚しないモニター仲間をよく旅に誘ってくれた。お陰でいつも気の置けないグループ旅行を楽しむことができた。
いつか尾道の海沿いの番外といわれた戦後造船所で働く人の為に朝早くから夜遅くまで営業している食堂にも行った。入り口のケースの煮魚や惣菜を選んで席に着く。入り口をあけると数歩あるけばすぐ海で、しばらくするとその海に面した裏口から釣竿をもった客が現れた。先週ここで大きな鯛を釣ったそうで、今日は駄目だったと釣り人が現れた。しばらくすると小太りの女性が編集長の隣に座った。編集長は、「尾道の人ですか」と声をかけ、ビールをすすめながら、その女性がスナックのママするまでの物語まで聞き出した。裏口から見える西日の照り返しにキラキラまばゆい瀬戸内の海が印象的だった。
四国へのバスツアーは母も誘った。バスの中で湯の町エレジーを熱唱する編集長を母がほめると、「あきこ、お母さんはぼくと同級生やぁ」と肩を抱いた。母は頬を赤くして照れ笑いを繰り返していた。そんな母が急死し、能面のような顔の私を気遣い、お葬式にも参列してくださったのに、ゆっくり仏壇にお参りしたいからとモニターの数名を誘って自宅を訪ねてくれた。「あきこ、がんばるんやぞ。編集長も応援してるからなぁ」
その後も、会社帰りに携帯電話のベルがなると、「どうせ一人でろくなもん食べてないんやろう。美味しいもん食べに行こう」とまた数名誘って南の町をうろうろした。そんな編集長が、すい臓がんから肺がんと度重なる再発で入退院が続き、その度に蘇った。会社の帰りふっと携帯に電話すると編集長が淀屋橋の編集室にいるという。「あきこ、ご飯食べにいこかぁ」と声をかけてもらったので行きつけの店に顔をだした。愛相橋通りに焼餅の美味しい甘党の店があり、母がいたころは「お母さん一人で留守番してるんやろう。お母さんに持って帰ったり」と和菓子の四個入りの詰め合わせを買ってくれた。その日は、私が買った。「編集長、ようお母さんに買ってくれはりましたなぁ。今度は私が買わせてもらいました。とにかく無事退院しはったんやらか。赤飯も買ってきました。お家で食べてくださいね」と手渡した。そして別れ際、「あきこ、また温泉行こうなぁ。頑張って!」と握手して別れた。
そして、二週間後、6月11日に自宅で倒れたまま意識の無いまま編集長は息を引き取りました。告別式はありませんでした。ただ、亡くなったと聞いただけで、家族だけでお別れされたそうです。
告別式はお別れの儀式です。死んだ人がこの世へのお別れを告げる儀式です。私は、編集長の遺影も棺も目にしていないのでどこかでけじめがありません。だから、ふっとまた携帯に電話がかかってきて「あきこ」と呼びかけてくれるような気がするのです。思えば20年来のおつきあいでした。父親のような存在だったのです。私は編集長って何度よんだことでしょうね。
編集長、淋しいです。楽しい思い出ばかりの最後に「あきこ」って呼んでくれる人がこの世からいなくなった。心に大きな風穴があいて、独りで生きていることの空しさがだんだん大きくなるのを感じます。
編集長、本当に寂しいです。時々、とめどなく涙が溢れます。



   2007年 4月15日(日)   亡母と巡る四国遍路へ 
四国遍路に出ます。
4月から毎月、日本旅行の癒しの旅・四国八十八ヶ所遍路の旅にでます。
弘法大師が開かれた遍路道に沿って、八十八の寺院を巡る旅、お遍路さんになって、一ヶ月に一度、天王寺から出るバスに乗って、遍路にでます。
夢千代日記に、花遍路の脚本家、早坂暁先生と広島の原爆をテーマにした夏少女の映画と講演会を熟塾初の主催イベントとして開催さたのが、2000年8月、あれから8年、昨年の8月6日の日曜日、広島原爆投下から61年目の広島を絵碑を辿って早坂先生と巡礼し、前日は何故か滞在先の松山経由、広島という旅に同行させていただいた。
小学生のとき、平賀源内を主人公にした「天下御免」で時代を痛快に風刺したNHKテレビ番組を楽しみにし、大学生の時には母と並んで夢千代日記の吉永小百合さんの冬の風と雪が降りすさむ温泉芸者さんのまわりにある人間模様を優しい眼差しで描いた作品に感動。花遍路では、祖父が四国の伊予出身で、私自身は行ったことがないが、母は小さいときに訪ねた四国の伊予の山河が恋しいのか、食い入るように番組を見ていた。花遍路では「そうじゃなもし」というお国言葉に飾られた一昔前の日本の素朴な人々の心の機微が、早坂先生の幼年時代の思い出話として、大家族やそのまわりの人々の姿が描かれ、遍路道に面した商家にはいつもお遍路さんの影法師があった。
そこのころに、PHPに早坂先生のエッセイが紹介されていて、年頃の村の娘は連れ立ってお遍路さんに出るという。夢一杯の娘が今以上に様々な事情を抱えて遍路する人々の人生について遍路宿や道々見聞きしているあいだに、自分が歩む人生には様々なことが立ちはだかっていることを学ぶという嫁入り修行でもあったという。このような習慣があるのが、四国だけだということを知ったのはかなり大きくなかってからで、小さい時は日本中の人が遍路していると思っていたそうだ。第一、先生自体が小さいときに体が弱く、この子は3歳まで生きられないといわれたのでお母様はアメリカ製の乳母車に乗せられて遍路したとのこと、乳母車で越えられない峠は男性の遍路さんの汗臭い背に揺られて物心付かない前にすでに遍路したとのこと。昨年も何故か、松山を訪ね石手寺の前の右衛門三郎の碑を眺めていた。お遍路。もっと先でもいいかとぼんやりと考えていた。
一昨年、熟塾で徳島に嫁いだ会社の先輩が阿波の人形浄瑠璃の後継者として活躍しているのを知って神山を訪ねるツアーの下見に、その道すがら一番札所霊山寺の前を通った。下見だからと、何の気もなしにその門を潜るとお遍路姿の一行とであった。母は12年前に61歳で他界したが、急死する前に西国三十三箇所を巡り終え、四国へ遍路に出たいと言い出した。船に乗って徳島に着くと、すぐに一番札所の寺があるといっていたということを思い出した。まだ先でもいいと思っていた。西国の番外で、長野の善光寺に行ったとき、白装束を売っていた。母は白装束を買いたいと言った。私は縁起でもない。そんなものを買い揃えるなんて、白装束を母を着せて棺に葬るなんて・・・父が亡くなって気がついたら母と娘との暮らしが十年続いていた。父が居なくなって、母までも送るなんて、縁起でもない。そんなもの今買い揃えなくてもと断固として拒んだ。しかし、それから数年たって、母は急死した。あまり突然だったので、ただ葬儀を出すだけで、精一杯だった。善光寺で買い揃えようとした白装束も、そして、四国遍路も母とはいけなかった。何気なく立ち寄った霊山寺の遍路装束の人は皆母と同年代の人たちばかりだった。般若心教を読経する人たちの後ろで手を合わせながら、母の後姿を思い出し涙していた。
昨年も早坂先生と同行し右衛門三郎会館での講演会に話を聞きながら、いつか遍路に出たいとばんやりと思っていた。
今年私は四十九になる。人生五十年を前にして、大きな戸惑いを感じ始めた。五十にして迷わずの人生なのに、私は女五十にして戸惑っている。専業主婦で、家で父や子供の帰りを待ちわびるだけの母の人生だった。最後は、朝食事をして確かに言葉を交わしたのに、夜帰宅してみると、弟と私の帰りも待ちきれずに、一人きりで逝ってしまった。母は台所に立ちながら、「私の人生は鍋の底を磨いて終わる・・・」と呪文のように呟いていた。私はその後姿が寂しかった。母が鍋の底を磨いて終わったのなら、私は違うものを磨いてやると思っていたのに・・・。五十を前に、鍋の底も磨かず、鍋以外の物も何も磨かず、ただのOLで、熟塾も十二年続けてきたが、何の意味もない・・・。最近、私はただのOLで、一人ぼっちで、人生のほとんどを無駄にしてきたような空しさに最近取り付かれている。何も磨いていない親不孝さと、父と揃えてくれた嫁入り道具である加賀友禅の着物の数々も日の目を見ることなく押入れの奥に眠っている。
そんなときに、ふっと手にした日本旅行のパンフレット、癒しの旅、四国遍路。天王寺から四国へ。母と十二年ぶりに遍路へ出よう。船にのって徳島につくとそこが一番札所だねぇ。何気なく一緒に行きたがっていた母の言葉が今頃になって、耳に響く。遍路では、同行二人といって、弘法大師が常にそばで見守っていただいているというが、私の場合は、一人での旅だが、母の遺影を懐に遍路しよう。嫁にも、鍋の底も、人生も磨かずに、ただただ五十年の年月を超えようとしている親不孝な娘の生き方を侘びながらの遍路からもしれない。
幸せとは何か・・・。自分の人生に与えれたものを全うしていない。残された人生をどう生きればいいのか。母が巡れなかった四国への遍路の道を月に一度訪ねながら、白衣を身に纏、母の思いを背負いながら、祈りの道を巡ろう。
早坂先生にお電話したら、本当に偶然、「それはちょうどいい、サライを買いなさい。僕も遍路について話しているから」とにかく、店頭に並ぶサライを手にした。2007年4月19日号“大特集 弘法大師と「同行二人」の八十八ヶ所四国遍路 サライは、こう歩く”。そも四国遍路とは何か。遍路の作法。遍路道の宿・食・見処。21世紀の遍路指南。とコンパクトに遍路の全容が写真や地図を交えて紹介されていた。
映画「人間の証明」で海沿いを歩く父と子の姿に壮絶な遍路の印象を持ったのが、二十歳そこそこ、そして、三十年。母と並んで楽しんだ早坂先生が描いた花遍路への旅となるのか・・・。
4月21日、をお遍路さんとなって亡母の思いと共に一番札所の霊山寺の門潜る。



   2007年 2月13日(火)   ウグイスの訴え

朝目が覚めたら、窓越しに鳥の声が聞こえる。
「ホケ、ホケ、ホケ・・・」
 「ホケ〜キョ!」と鳴ききれないウグイスの鳴き声。
うつらうつらしながらも、起きなくてはけないという意識と、まどろみに落ちそうな睡魔の合間で、
「ホケ、ホケ、ホケ・・・」のウグイスの張りの無い投げやりな声だけが窓越しに聞こえる。

起きて会社に行かねば!と思いながらも、うつらうつらと覚醒しきれむまま、
「ホケ、ホケ、ホケ・・・」と窓の向こうのウグイスの声を、瞼をとじままままどろみの淵の端を歩くように真似してみる。
「ホケ、ホケ、ホケ・・・?」
山の木々の梢が住み辛いものになったのか?!
かっては人里にまで下りてこなかったウグイスまでが、わがや庭のか細い枝先に止まって囀っている。
山に太い梢は無くなったのか。深い森の渓ではなく、人里の騒音と雑踏に翼を広げ、濁った人間社会の上を飛び続ける。
「ホケ、ホケ、ホケ〜」20分ほど発生練習したものの、とうとう「ホーホケキョ!」の威勢のいい弾んだ春の心地よさを
歌いこんだ囀りを発することなく、ウグイスは飛び去り、入れ違いに飛んできた雀の群れの絡みつくようなチュンチュンという賑やかな鳴き声が響いた。

いつもの朝が来た。雀のせっかちな鳴き声にすっかり目が覚めた。
年中囀っている雀の声の季節感のない着たきり雀のいつもの声とバタバタと軒先を小走りに走る足音を耳にして
私はどこか安堵した。

いつの頃からだろうか・・・、雀に混ざってウグイスが山から下りてくるようになったのは、
そして、今年は2月の初旬だというのに、こんなにも早く囀っている。
奥山に分け入ってしか聞けない声を窓辺で聞けることが、風流だとばかり楽しんではいられない・・・。
ウグイスは安住の地を探して放浪しているのか?
人々に春ではなく、何かを訴えに人里の雀に混じって叫んでいるのか!

2月の中旬だというのに、ウグイスが春を告げに電線の森を潜って町に下りてきた。
山はどうなっているのだろう?!
季節の歯車が狂い続け、勤勉で寡黙だった日本人の暮らしを遠くで眺めていた
はずのウグイスが渓を越え、家々の軒先を飛び回り何かを訴えているのかもしれない。

何かが狂っている狂い初めている・・・予感。
健気な小鳥たちの叫びや訴えに耳を傾けることを忘れ、人間の暮らしの快適さばかりを追求し続けた結果が、
鳥の囀りも響かない、鳥も人も住めない無人の世界を作ることになるのではないか・・・。

ウグイスの囀りに敏感になるなんて、私のただの取り越し苦労であればいいが・・・・・。

2月初旬とはいえ、暖かすぎる陽射しの中、ウグイスの初音を聞く。
どこか不気味な前兆のように、ウグイスの振り絞った泣き声のようにその声が重く耳の奥に響いている。



   2006年12月12日(火)   メジロと百舌
我が家の小さな庭の椿の花の蜜を啄ばみに、メジロがつがいでやってくる。
俊敏な動きで紅葉の枝に止まったかと思うと、濃いピンク色の椿の花に小さな口ばしを差し入れて落ちつきなく、花から花へと蜜を楽しんでいる。

そこに「キーキー」と、全く美しくない声をあげて、茶色の羽を身にまとい、美しくないぼってりとした体型の百舌が物干し竿に止まってあたりを伺う。

百舌とメジロ。
小学生の頃、傷ついたメジロを小さな鳥かごにいれて父が持ち帰った。すり餌を用意して、水を替えるとその小さな木製の籠の中を飛び跳ねる。
目の周りが白くて、円らな瞳で私を見つめる。
掃除した籠を日向においていたが、夕方になって籠を覗き込むとメジロが口ばしの先から血を少し滲ませていた。
「あれ、籠で引っかいたのかなぁ・・・」程度に思っていた。
それからも、毎日欠かさず世話をした。
チョンチョンと飛び回っている籠の中に手を差し入れてもパタパタと驚かなくなり、やがて私の手の平に飛び乗って遊ぶようになった。そっと握り締めても、驚く様子もなくキョロキョロしながらまるで手のぬくもりを楽しんでいるかのように、私の顔を見上げている。
可愛くてしかたい、小さな命と心が通じているかのようでに愛しかった・・・。

で、秋が来た。
いつもように掃除をして籠を日向において、家に入って出てきた時に、籠に目をやると飛び立つ何者かの陰を見た。
その影は「キーキー」という甲高い声を上げて籠一杯に広げていた羽を空に向けて飛び去った。

私はメジロの籠の傍に走り寄った。
メジロ・・・・メジロ・・・・・私のメジロ!
メ・ジ・ロ・・・・いつも可愛い視線を送っていたメジロの瞳どころか、首がない!

百舌は、鋭く長い口ばしを籠の間に差し入れて油断していたメジロの首をひっかけ、籠の端まで引っ張り、私の駆け寄ってくる気配に驚いたのか。そのまま首だけをくわえて飛び去ったのか!

無惨にも胴体から飛び出した細い首の骨と、苦しそうに広げたままの羽が痛々しい!!
私は大声で泣き叫んで家の中に飛び込んだ。
「メジロの首がない!! メジロが殺された!!」
母も走り出てきたが、その惨状になすすべもなく立ちすくみ。小学生だった私はただ泣きじゃくった。

そして、いつか口ばしから血を滲ませていたメジロを思い出した。あれは、百舌に襲われたのではと思いついた。表に籠を出すといつになくキョロキョロと落ち着きがなかったのは、百舌の影を恐れていたか!!
それに気付かず日向に一匹にしたまま無防備に籠を表に置いていたなんて。
逃げるスペースも限られていた籠の中のメジロが不憫で、同時に何で気付いてあげれなかったのかと自分を責めたてた。

それからも、百舌は何事もなかったように庭にやってきた。
あの「キーキー」というかん高い、美しくもない声に、無意識に嫌悪感と恐怖心を感じたものだった。

泣きじゃくる私に、メジロは死んでしまったのだと告げて、
お弔いをしてあげようと、母は小箱に真綿を引いてメジロの遺体をいれた。
お別れだからと箱を閉める前に、私は小さな羽をそっと撫でた。その翼はもう嬉しそうにも、苦しそうにも動くことなく
あの柔らか命のぬくもりはなく、硬直した血の気の引いた足だけが妙にピーンと伸びていた。
そっと撫でたメジロの翼に「冷たいよ。冷たい!」
私はまた声を出して泣いた。

庭の端に小さな穴を掘って、小箱をおいて土をかけ、小さな石を探してきて墓石にした。
庭の花を添えて・・・もう40年前の話だ。

いつのまにか、メジロの墓石の在り処も分らなくなったが、
窓越しに、メジロが楽しげに椿の花を飛び跳ねる姿を見ながら、無意識に救えなかった掌に残るメジロのぬくもりと
あの「キーキー」という百舌の声にとりとめもない嫌悪感を感じる・・・。

「気をつけて!」と二羽のメジロに視線を送りながら、
後からやってきた百舌の羽ばたきに戦々恐々としながらも、
窓越しに40年前の亡き母との記憶を辿っていた。



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☆Monoceros ver 0.10 by kz island