日  時:2003年 7月 12日(土) 
講 師: 上方落語家 桂文枝師匠 


 


上方落語家 / 桂文枝師匠"わが人生を語る"

浴衣がいっぱい、行ったり来たり〔13;00〜14;00 ゆかた着付け教室〕
 
再びやってきました、地下鉄松屋町駅B出口をあがって右、あの不思議建物「練」の2階。本日は、総員ゆかた姿で、なにわの夏越し風情を堪能しようという趣向だとか。
木の階段をトントンと上がって、"装和きもの学院"の入り口にて会費を払うと、これはいかにも本日の趣向にふさわしい団扇(ウチワと読むノ!)をくれる。いや、いろんな絵柄のが並べてあって、お好みで選びます。ワタシは、青海波(せいがいは)柄の藍色も渋いのを選びましたが、星条旗文様や名句文字柄のものなど多種多様。人気のものは、すぐに品薄状態に。

参加者79名のうち2/3ほどが女性で、男も女もほとんど皆さんゆかた姿。おうちから着てきたかたもいますが、多くはここで着付けてもらう。そこは「生徒さん大募集中!」の"装和きもの学院"、これもお着物姿のインストラクターのかたが奥襟の貫き方や帯の結びかたを教えてくれて、男性の角帯もバッチリ決まり( 塩谷さん!カッコよかったヨ〜)、ここで新規ご購入されたかたもいらっしゃったほど。赤い金魚や朝顔なんど、ゆかた定番の柄や藍の市松が行き交い、中には総絞りのも(ビックリ!)。え、これナニ? バラあ・・ゆかたにバラ柄ってあったっけ? 絽(ろ)の女性(クマちゃん!)や間道(かんとう)縞の男性なんぞ格段にイキな皆さんもおられましたが、あれってゆかた? 甚平もあったよネ。それに、"考・動・人"山本たかし国会議員ご夫妻の美男美女カップルぶりは際立っておりました。ゆかたのカップルって、ナゼかとっても仕合わせそうに見えるもんですなア。で、多分、この日大阪では、ゆかたの人口密度はここが一番だったハズ。移築された旧有栖川別邸の広い日本間に、あふれるゆかたの男女って、ちょっとみものでしたヨ。

――で、お次ぎがお待たせ、上方落語界の四天王のお一人である、あの桂文枝師匠のご登場。師匠は、いまやTVでも大人気の桂三枝、桂文珍、桂きん枝、桂小枝、さらに"女噺家"桂あやめサンなどを育てて錚々たる落語家山脈を率いる大看板・ ・ ・よくぞ出張っていただけたものヨ。それも本日は落語"噺し"ではなく、「わが人生」の"お話し"のほう。これはちょっと珍しい"事件"と云ってよいかも。


初めて、ご自分の人生秘話を語る五代目 文枝師匠 〔14;00〜15;00〕

「こんにちは みなさん 文枝でございます」で、師匠のお話しが始まった――


こんにちは、文枝でございます。今日は、ほんまに勝手が違います。いつもでしたら、三味線、太鼓に合わせて出てまいりまして、座布団の上に坐らせてもろうて「で、今日は一席と・・・」しゃべらせてもらうわけですが、これが、私にとりましても本職でっさかい、様になりますが、こうやって机を前においてもらって椅子に座って、しゃべれと言われましても、落語家やさかい何でもしゃべれると皆さん方は思ったはるかもしれませんけど、そんなもんや、ないんですなぁ。落語の場合は、"間"とかいろんなことを量りながらしゃべっていきますが、講演となると、また別でございまして、どうも勝手が違います。今日は「熟塾」という会をやっている仕掛人がいたはって、私はあんじょう「熟塾」の中にはめ込まれて今日ここにいてるという感じです。

「熟塾」てなんや蟻地獄みたいなものですなぁ。這い上がろうと思って一生懸命に、逃げたい逃げたいと思いながら、とうとう泥沼の中に滑り込んでいったという形で、今日私はここに出てきたわけでございます。昨日の夜、もう寝られへんかって、気になって、気になって、ほんまのとこ、自分のことしゃべれと言われても、どんなことをしゃべってええのやら、ぜんぜん思いつかんわけで、メモをみながら、ちょちょっと何とか私なりに力を入れててしゃべっていきたいなぁと思うわけであります。そやから、今日のテーマ「桂文枝 わが落語人生を語る」やなんて、なんか仰々しいて、ひょっとしたら、文枝のはなしは、奥の深い広大なものであろうというように思いながら来られた方もあるかしれまへんけども、実に幅の狭い、実に奥行きのない、うちの家みたいな話になると思っていただいて、軽い話でございますので、肩の力を抜いてお聞き願いたいと思います。

☆ まだまだひよこ、元気な先輩を見習うて ☆
 時代は、どんどん進んできまして、いま日本は人口は一億二千六百万で、長寿国世界一位やといわれていますが、昨日も新聞みておりましたら八十三歳のお方がゴルフを6ラウンドぶっとうしで周りはったという記事が載ってましたなぁ。朝早うにまわりはって、夜暗うになりますと、車のライトを照らしながら、カートにも乗らんとずっと歩いて周りはったそうで、これなんかもすごい記録やと思うのですが。目標を持って頑張ってはるわけでございますなぁ。ある時、お会いしました八十歳過ぎの方が、一生懸命にバイオリンの稽古をしたはる、ということは手の運動にもなるし、曲に合わせて歌えば声をだすことになりますし、そういうことが健康に良いからと続けておられるということも聞きましたし、百歳で山登りをしたはるという方もおられます。それぞれ、年齢に関係なしに、何かの目標をもって頑張っておられるわけでございます。これでいいますと、わたしら七十そこそこは、まだまだひよこでございます。それでも、疲れるといいながら、そんなこというたらいかんなぁといいながら、元気な先輩を見習ないなぁあかんなぁと自分で鞭打ちながら頑張っているわけでございます。

☆ 落語の由来は ☆
 さて、落語というのは、歴史をたどりますと、四百年前からあるわけでございます。落語の始まりというのは、何かといいますと、その昔は、御伽(おとぎ)の衆という方々がそれぞれの土地に伝わる物語を伝えていたそうで。その御伽衆の中で安楽庵策伝(あんらくあんさくでん)という京都の坊さんが、『醒睡笑(せいすいしょう)』という咄の本を八巻書かれて、そこに書かれてありました小話みたいなものがいろいろとあります。「裏に囲いができたでエ」「へぇ〜」とかいう小話を作って本にまとめて出したわけでありますが、そうすると、その小話を演じてみたいいう人が現れまして、それが噺家のはじめでございます。

その前に、辻咄(つじばなし)というのがあり、江戸では鹿野武左衛門が浅草の観音さんで、大阪では米沢彦八が生玉神社の境内のヨシズ張りで歩くひとに話を聞かせ、京都では露の五郎兵衛が四條河原や北野天満宮境内ではじめました。だんだんと人気が出てきて、のちにお座敷でも話すようになってきました。江戸よりも大阪の噺のほうが派手さがございます。それは、大阪では屋外で、縁日にひとに混ざって席を設け、前を通る客に、音を出して注意を引くという形で話しておりました。どうしても、笑いをようけとらなあかん。東京のほうでは、三笑亭可楽が浅草の観音さんで寄席を作って落語をはじめ、大阪のほうでは、やがて桂文治が本町のお宮さんの境内を借りて寄席を開きました。

☆ 噺を"質入れ"☆
桂文冶は、三代目まで大阪で活躍されていましたが、のちに東京へ名前が移ってしまうわけでございます。何故かといいますと、二代目の文冶の娘さんが東京の落語家と結婚をしまして、お父さんが亡くなったので婿に文冶の名を継がせます。大阪にも同じ文冶という名前を継ぐものが現れました。同じ文冶が東西で二人いたのでは具合がわるいというので、結局は身内ということで、東京のほうへ文冶が移り、現在では東京で桂文冶が活躍しているわけでございます。

で、文冶の弟子に初代の文枝が誕生しますが、すごい人気のある人で鰻谷に住んではったそうです。ところが、これが大の博打好きだったそうで。初代の文枝の十八番(おはこ)は『三十石船』でした。浪曲では、広沢虎造といえば清水次郎長、玉川勝太郎というと天保水滸伝とか、鈴木米若というと佐渡情話やとか十八番がでてきます。十八番をしょっちゅうやっていてもお客さんが文句を言わず十八番を楽しんで聞いていたという時代がありました。

それと同じように、初代の文枝は『三十石船』を十八番としてやっていました。お客さんはそれで充分得心をして聞いて帰るのが続いていたそうですが、ある時、文枝の贔屓先の薬問屋の旦那が、文枝の『三十石船』を聞きまして、「文枝の三十石は最近えらい荒れているやないか。あんな三十石をやっていてのではお客さんが笑うで」といいはる。博打がさわったんでんな。で、文枝をお座敷によびまして、「文枝さん。あんたの三十石はなってない。あんな三十石やってたら、もう、三十石はやりなはんな」と言われました。「質に入れなはれ」と言われました。「質に入れっていわれましたけど、どいういうことですか・・・」と問うと、旦那は「わしが金を貸したるさか、三十石を、質に入れたと思て一切やりな。質受けするまで一切やりな」と言われたんですなぁ。そこで、文枝は「承知いたしました」ということで、当時100円という金で『三十石船』を質に入れたそうでございます。

そうなると、文枝の三十石は聞けなくなる。お客さんが文枝の三十石を聞きたいと法善寺の寄席なんかで註文がかかるんですが、文枝はやれないので、「今日は雨が降って船が出まへんねん」と言い逃れをしていたのですが、それが噂になって、どうも文枝が三十石を質にいれたらしい、それでやらんのやということが解ってきました。そうなると、お客さんのなかには、粋なお客さんがいたはって、文枝の三十石を是非とも聞きたい、それでは質受けをしたろうやないかと、何人かの人が薬問屋さんのところへいきまして、質受けをしてくれと申し出ますので、文枝をよびまして「こういうてくれたはるが、どや?」と聞き、文枝も「一つ宜しゅうお願いします」ということで、三十石を質受けしてもらいましたが、「博打だけは質受けでけへんで、抵当ながれやで」ということで、文枝は博打はやれず、以後『三十石船』で大入り満員をとったという逸話がのこる幕末の頃に活躍されたすごい師匠やったそうでございます。ま、のんびりした時代だったんでしょうなあ。

☆「文枝」いう名 ☆
この文枝の弟子に、文都、文三、文團冶、文之助という明治中期の上方落語黄金時代を築いた四天王が生まれました。初代の文枝が亡くなって、二代目文枝を継ぐのに、誰にしようということになりましたところ、一番弟子の文都が継ぐことになりかけたのですが、その次の文三が文枝の名を継ぎはったんですなぁ。文都は、自分が継げると思っていたのが、継げなかったので、桂という名前を返して、月亭文都という名前に変え、活躍して大入り満員をとった話があります。
何故月亭にしたかというと、本来わしは桂文枝が継ぎたかった。そやけども継げなんだ、あぁ継ぎてい、継ぎてい、つきてい・ ・ ・月亭文都いう名前をつけたという話が残っております。

その月亭文都の弟子の文三が、二代目の文枝になるのですが、その兄弟子で、桂文之助という方がおられました。これは、京都の高台寺の前に甘酒茶屋がありますが、あそこが文之助さんのおうちやったんです。文之助さんは生前から曾呂利新左衛門(そろりしんざえもん)という名前を付けてはって、曾呂利新左衛門いうのは秀吉に仕えた方でしたから、同じ名前を付けたらおかしい、ところが、今でも残っていますが、寺町の龍泉寺に曾呂利新左衛門の大きな碑が立っております。そこの横手に「偽 曾呂利新左衛門」という二世を偽ともじったしゃれっ気のある碑があります。それを見る側のみなさんも非常に楽しんでゆるしたというようなのどかな時代がありました。

初代の文団冶の先に、映画や芝居でも有名な初代の春団冶がでてきたわけでございます。このように初代の文枝の下に四天王がうまれ、仰山に弟子さんが増えてまいりました。で、五代目をわたしが継がせていただくことになったのですが、文枝という名前を継いでからものすごく重みを感じまして、いまだに文枝という名前いうんは重いもんやなぁと感じております。ある時分までは、えらいことしてしもうたなぁと悔やんだりしたこともありますが、今はなんとかその名前をば自分なりに頑張って残していかなあかんなぁという気にもなってますけど、それでも今でも重みを感じます。それは、どいういうときに感じるかといいますと、やはり落語をやっているとき、いろいろと思いながらやりますけど、その時に失敗があったらいかん、どうしようかなぁ、名前が重いなぁと絶えず考えるときがあります。

☆ 噺家になる ☆
私の弟子には、いろんな弟子がおります。総領弟子が、桂三枝で、きん枝、文珍、文太や、文福や、小枝とか、変わった弟子がぎょうさんにおります。そやけど、みんなそれなりに、活躍をしているわけでございますなぁ。そんな弟子が入ってくるときには、みんな生き方がいろいろとあります。私もそうでございます。私は、噺家になる前は、昭和22年まで市の交通局に勤めておりました。交通局も何処にいてたかというと、地下鉄の淀屋橋の南側を下にはいったところに、昔は工場がありました。なぜかといいますと、空襲で焼けてしまいまして、ほとんどの車庫がやけて丸裸になってしもうた。そこで、工場を移転させないかんということで、急場しのぎに淀屋橋の地下鉄の下の電気工場というところに配属されておりました。そこ、半年ほどありました。それから、霞町の車庫の車両電気部に配属されて勤めておりました。

入りまして、一年ほどたって、自分の趣味として何かやることないかいなぁということを考えておりましたら、小さい時から祭りが好きで、当時大正区の三軒家というところに住んでおりまして、祭りがあるというと、上の八坂神社と下の八坂神社を掛け持ちしながら祭りを見にいったのを覚えております。そのころの祭りというのは、屋台でもいろんな店が出て、今の俗にいう出店と違いまして、いろんな格好の商売がありましたので、見るのが楽しかったので、朝早くから宮さんに行ってはお渡りを見、獅子舞を見て、太鼓を見いしながら、楽しんだものでございます。そういうことから、音に対する興味を持つようになったようで。獅子舞を見ながら楽しいなぁと思いながら、そんなものが身についていたでしょうな。
ある時、私の同僚で、もう亡くなりましたが、桂米之助というのがおりまして、この人もたまたま交通局の同じ職場になったんですなぁ。その時に、米之助という人がちょこちょこと寄席通いをしていると聞きまして、踊りでも教えてくれる人はいないかとたずねますと、いい師匠がいてるがなぁということで、紹介してもらったのが、四代目桂文枝やったわけでございます。

うちの師匠は踊りも教えてはって、戦時中は大連なんど外地の検番で踊りを教えていたという師匠でございまっさかいに、踊りは坂東流でたいへん上手でございました。その人に教えてもらおうということで、通っておりましたが、当時は戦後で、噺家が非常に少ないので、五代目笑福亭松鶴師匠が芯になって「落語荘」という企画会社みたいなのを作りまして、そこから噺家を集めては焼け残った小屋で落語会をほそぼそとやっていていました。寄席がないので、端席といいますが、ちょっとした小屋でうちの師匠もそういうところに呼ばれておりました。私は踊りの稽古をしながら、師匠がそういうところに行きますときに、同じようについていくわけです。そのうちに師匠が「あのな、踊り趣味でやってるんやったら、落語も趣味で稽古したらええやないか」とうまいこと騙されて、そうやなぁ。踊りを趣味でやってんねんさかい、落語も趣味でやったらええわと、落語のほうへはいっていったわけであります。そうしますと、落語が非常に好きになりまして、踊りよりも落語のほうへのめり込んでいったわけですわ。

落語を見て、いろいろと覚えますが、稽古をする場がない、そこで私は車輌工場の電気部で、空襲で焼けました市電のモーターを改修する仕事を受け持っていました。電線に白い糸を巻きまして、膠とニスの混ざったのをつけまして、これを乾燥室へ持っていって乾すというのが私の役目だったので、乾燥室の中は誰もいないので、師匠に教えてもらった落語を乾燥室に入って落語の稽古をしました。乾燥室は暑いので、兵隊さんがもっていた飯盒に水を入れて一緒に持って入って、飲みながら一生懸命に落語の稽古をしました。やがて寄席通いをどんどんやっているうちに、局へ行くほうが少なくなってきた。ということは、休むんです。局の人もわからんはずがない「君はなんやこの頃えらい落語に凝ってるそうやなぁ。寄席通いしてるそうやなぁ。それやったら、いっそのこと、落語家になり、局辞めてしまい」と言われて「そうですか。はい、辞めます」とすぐに辞めれたんです。そして、乾燥室で覚えた落語を引っさげて落語家になりました。

☆ 弟子をとるいうこと ☆
うちの三枝は、関西大学にいてまして。当時落語研究会があって、学生さんで随分と熱心に落語を研究したはる人が多かったんです。関大の落研のリーダーとして頑張っていたのですが、卒業する前に、ある住宅会社に就職が決まっていたんですが、自分はどうしても噺家になりたいということで、私のもとに落語家にしてくださいと来たんです。それ結構なことやけど、噺家になるのはええのやけど、親の承諾がなかったらまずあかんと、親を呼んでこいというたんです。ちょっと困った顔してましたけど、「ハイ」ということで日を決めまして、私は難波の「花月」に出ていた頃ですけども、日を決めてお母さんをつれてきました。

ところが劇場に入らずして、私の方に連絡してきて、劇場の近くの喫茶店で会うてくれまへんかということで、お母さんと初めてお会いしました。その時に、お母さんがどない言はったかというと、「この度は、いろいろお世話になりますが、どうぞ宜しくお願いいたします」といわはるのですが、本人はお母さんにどないいうていたかというと、今度勤めるところの偉いさんに会うてもらうさかいに、あんじょう云うてやというていたそうです。わたしは、そんなことは知らんもんですから「いやいや、本人がえらいやる気をおこしてるもんでね。お母さんが承知してくれはるんやったら、本人がやるというのやったら、やらすのもええことですなぁ」といい、私がお母さんに「言うときますけどな、この世界に入ってすぐに金にはなりまへんで」というと、お母さんがきょとんとした顔をした。そらそうでしょうね。住宅会社に就職するというのに、給料ももらわんと働くとはどういうことなのかという表情だったので、「本人がどういうたはるか知らんけど、噺家になりたいというて来たはるんですけど・・・」というとお母さんが息子に向っておまえは何を考えてるねんとえらい怒ったはったんですけど、本人が働き先まで決まっているのにそれを断って、噺家になろうという決心を持って頼みにきたのやさかい、一つ試しにやらせてみたらどうですかということで、彼は噺家になりました。今、一生懸命本人も頑張って活躍をしております。

その次が、うちのきん枝でございますが、これはしゃーない弟子でございます。そやけどね。この男ほど人情味がある弟子はないんです。弟子入りするなら親に会いたいといいますと、母親を連れてきたのですが、その時に母親がどういうたかといいますと、「師匠!この子はわての言うたこと何も聞きまへんねん。あんたはんの好きなようにしなはれ」と言うて連れてきたんです。
親がどうにもならんものを私のところへ連れてきてどないするねんと思ったけども、いっぺんこいつ仕込んでみたろとおもう気になりまして、弟子にしたんですが、ほんまに何にもわからんしゃーない子でした。例えば、朝、食事をしながら私が小川宏ショーを見ていたら、本人は自分の家に居た時のように自分の好きなチャンネルを見る癖があるので、私が見て食事をしている最中に、テレビのところへ行って、チャンネルを捻りよるので、私にしてみたら「何をすんねん、わしがみてるのに・・・」と思っていたら、またチャンネルをガチャガチャと捻るのです。この時は、まぁまぁと思ったんですけど、ある時どうしても怒らなあかんことが積もり積もってあったさかい、私はグッと我慢するところは我慢するんですが、爆発したら止まりません。そのときは、思いっきりド突き倒したことがあるんですなぁ。しかし、きん枝も自分が弟子をもつようになって、師匠に怒ってもらったことはほんまに有難いことでした。そやさかい、師匠には頭があがりまへん。感謝してますといろいろと気を使ってくれるのが、きん枝でございます。

その次に入門してきたのが、文珍ですが、彼は大阪産業大学に居てまして、落研におりました。なんで、落研にはいっていたのかと聞きましたら、ある時大学の講義を聞いていましたら、後ろにいてた学生が、文珍の背中をポンポンと叩いて、おまえこの講義聞くんやったら、この本読んだほうが面白いでというて、出したのが落語の本やったそうです。それを読み出してから落語に凝りだして、そして、落研に入って私のもとにきたわけであります。大阪産業大学に入る前に、関西大学に受けてすべったり、他の大学を受けてすべった経験があるそうでなぁ。当時、二次募集とかがあって、大阪産業大学に入ったそうです

が、しかし、関大をすべった彼が後に関大の先生になろうとは、世の中はわからんものです。そうして、わからんことがぎょうさんにありますけども、しかし、なんですなぁ。人間の触れ合いというものは、どういところから生まれてくるかわかりません。わたしでもそうですけど、あの米之助君と友達にならなんだら、私は噺家でいてなかったと思います。そういうきっかけが生まれて、自然と、人と人との触れ合いの中に、噺家になっていく、謂わば宿命というものが生まれてきたんやないかなぁと思います。

弟子もそうです。私のところへきます。はたの師匠のとこへいけばいいのに、私のところに来れば、私もなんとかしてやらなあかんなぁというようなことで一生懸命になるわけでございます。弟子の中にもいろんな弟子がぎょうさんにいてますけど、気のきく弟子と、気のきかん弟子とがあります。ある時、雑誌社がグラビア用の写真を取らせてくれと家に来たのですが、いつも隣に坐る弟子が、その時に限って一番端しに坐ったので、「なんでいつも横手にすわるのに、今日は端に坐ったんや」と聞きますと、「考えてみなはれ、グラビアいうたら、真ん中の席はページとページの間になりますねん。端っこに坐った方が徳でっしゃろ」という。あの時わたしねぇ、なるほどなぁと思いました。こういうことなど、弟子に教えられることがぎょうさんあります。気のきかん弟子といいますと、夏場ですけど、鮭食べたいので買ってきれくれ、それと手紙をポストに入れてきてくれといいましたら、「ハイ」っていうて出て行ったのはいいのですが、買うた鮭と手紙を一緒にポストにいれて帰ってきた弟子があります。

☆ 間抜けな弟子 ☆
間抜けな弟子といいますと、東京にもう亡くなったんですけど、トンキョウ( 頓橋?)という人がいて、春風亭柳橋といいう人の弟子でしたが、師匠の庭の木の枝が伸びてるから枝切ってこいといわれて、「ハイ」ってノコギリをもってあがって、その枝に股がって枝を切って枝と一緒に落ちたというほんまの話ですねん。こういう間抜けな弟子、噺家やってもあかんでと思うんですが、違うんですなぁ。こういう奴がまたピカッとでてくる時があるんです。

昔は私らでも師匠のもとに行って、何かできるか、何かやってみぃと言うてやってみる。でけへんかったら、この噺教えるさかい早う覚えろよと、覚えさせてもらってやってみぃというところで、これやったら、やっていけるなぁと、決めていくんですが、それと同じように、一遍やってみぃということでやってるんですけど。今はね、テープというものがありますさかいに、覚えるのは非常に早いわけです。わたしらの時は、師匠がやっているのを寄席に行きまして、寄席の中で聞いて覚えたのを、目の前でやっていただいて頭の中でやれるようにくっていくわけです。今は、人のやっているもんでも、テープにとってあるから、好きなように覚えられるので、やろうと思えばやれるわけです。ところが、師匠直伝で教えさせてもらったのは、きちっと覚えられるわけです。それこそ、手取り、足取りできっちり覚えさせてもらえる。覚えたネタは、忘れられません。いつまでも残ってる。ところが、テープで覚えたネタは、暫くやれへんかったら、忘れてしまうんですなぁ。それくらいに浅いわけです。師匠から直々に教えてもらったネタは、いつまでも覚えておきたいなぁと思っております。

弟子の中には、もっと間抜けな奴がおりまして、お客さんが来はったときに、みな留守やったので、自分では気をきかせたんでしょうなぁ。コーラーをどうぞと、瓶に入っているコーラを注いでお客さんに出したんですが、ところがお客さんがちょっと口をつけて帰らはったんで、何で飲まはれへんかったんやろなぁと思って後で調べたら、そうめんの出汁やったという。考えたらコーラいうたら、栓を抜いたら噴き出すんでっせ。そんなんそこらにぽんと置いておくわけがない。

そのような間抜けな弟子もぎょうさんいてますけど、弟子入りしますと、3年間、礼儀作法からいろんなことを覚えるわけでございます。今は寄席らしい寄席がない。今わたしらが所属してます。吉本興業っていうのに「グランド花月」がありますが、寄席という形式やないんです。昔は寄席の楽屋に入りますと、こういう大きな部屋が一つやったんで、上下の席がきっちりついていて、前座は隅のほうで小さくなって坐ってる。そこで、一日師匠の顔を眺めて過ごすわけです。これが、つらいんですなぁ。そやけど、つらいことを経験せないかん。これが修行であって、それを三年間ずっと続けてやるわけでございます。そやけど、今は花月なんか行きましてもみんな個室ですわ。「おはようございます」と入っていったら、みんな自分の部屋に入っていくと帰るまで顔を合わすことがない。舞台で顔を合わすぐらいのことでしょう。それ以外に顔を合わすことが無い。そやさかい、中のしきたりというものが徹底してないわけですなぁ。肌で感じるものが少なくなってくるわけです。私らなんかは、師匠についていろんな事を修行させて頂いたんで、そこのところは今の若い人はかわいそうやなぁと、修行の仕方がちがうからなぁと思うんですが、逆にそれを幸いにしていると思う若い子もいてるかもしれませんが、しかし、ほんまに修行というのはそんなもんやないでと話をするんです。

☆ 噺家の修業 ☆
わたしは色紙にサインするときに、「やる気、本気、取る気」と書くことがあります。やる気いうのが、どんなことかというと、噺やったら、噺を覚え、それの評価を受ける。「この噺は立派なもんやなぁ」といわれて、更に"やる気"をおこし、花を咲かすことになりますが、咲いた花を、俺の咲かせた花は綺麗やろう、立派やろうと花を咲かせただけではいかん、咲いた花を、相手にも与えてやる気がなかったらあかん。やる気をおこせば、花が咲きます。咲いたら花を相手に与えてやる。それには、根を大事にせえへんかったら花が咲かないから、もとの根を大事にせぇ。これを大事にするには"根気"をもつことやないかということで、根気。それと同時に相手に花を与えてやったら、今度は次のものを吸収していきなあかん。これが"とる気"やないかと、私は解釈しております。いつも「やる気、根気、とる気」という話をするわけです。

ほんまに変わった弟子がぎょうさんにいてますが、私の弟子で、直系が20人いて、孫弟子入れますと43人いてるんですが、みんなそれぞれいろんな生き方をしてます。そんな今の若い子が可哀相やなぁというのが、出るところがない、寄席がないから、寄席の勉強ができない。むかし地域寄席いいまして、終戦後は神社の社務所を借りたりお寺の本堂を借りたりしながら、細々と勉強させていただいて、後に寄席が復興したわけであります。私はそんな寄席の中で勉強ができました。それだけも幸せやなぁと思います。弟子らは寄席がないので、可哀相やなぁといつも思うわけです。弟子の生き方もいろいろあります。人生には登りがあったら、下りもある。登りというのはどんどん登っていって楽しいんですが、しかし、登ってしまえば今度は下りを迎えるわけでございます。登り坂、下り坂というのは人生の中にはあると思いますけど、いちばん咄嗟にやってくるのが、"まさか"という坂でございます。登る時も、下る時もまさかの坂があるということも絶えず心しながら人生を歩んでいかなあかんなあ、と思っております。

【質疑応答タイム】
Q;落語家をやっていて、やめたいなぁと思ったことがありますか?

やめたいなぁと思ったことは一度もありません。私、噺家になって3年目に結核を患って2年間の療養生活をして手術をするときに、肺を切ってしまうともう人様の前で噺ができないかなぁ。もう落語家はでけへんかなぁ、と心細い思いはしたことはありましたけど、噺家になろうと思って入った世界ですから、苦しいこともありましたけど、そんなんは全然苦にしなかったですなぁ。なるときでさえ、「交通局やめるか」「ハイ、承知しました」と飛び込んだので、苦しいことよりも噺家になったことを喜びに感じてきました。いろんな人とのお付き合いもできましたし、いろんなことを勉強できました。そういのは、局にいたのでは体験でけんことばかりです。好きな落語家にならせてもろて、ほんまに有難いなぁとおもっております。

Q;たくさん、お弟子さんがいらしゃるのですが、中にはこいつは落語家向いてないなぁ 、と思って引導を渡したお弟子さんはいらっしゃいますか?

私のところに随分たくさんの人が落語家にしてくれときた人はいるんですが、まず一番あかんのが、なまりのある子。これは絶対に駄目なんですわ。広島や遠方から弟子にしてくださいとくる、とって稽古してもまず駄目ですね。それと、入ってきて稽古している間に、おまえ辞めてくれと何遍いうたかわからへん弟子もおります。弟子は自分がなろうと根性持ってはいってきたら、こちらがどれだけ「辞め、辞め」いうても、とことんやりよります。それが、いまだにやってます。しかし、これは仕方がないなぁ。あかんのになぁ。なんで今でもやっとるんやろうなぁと思う弟子もあります。辞めたほうが、得やのになぁと思う弟子もあります。

Q;創作落語についてはどう思われますか?

創作落語、わたしらは新作落語といいますけど、落語作家を職業とされている方もありますが、弟子には、自らが書いて演じる子がわりと多いです。わたしの弟子の三枝は自分で書いて、自分で演じています。今は百くらい勉強して書いているくらいやし、あやめっていうのも、女の子やから古典落語をやってももうひとつ面白くないので、自分で自分なりのものを作って創作落語としてやってます。それなりに聞けるような話になってます。

Q;女性落語家をどのように弟子として迎えられたのですか?

女性落語家は東京では3、4人いてます。大阪ではみやこと、あやめと二人いてます。あやめの場合も、最初は、女の子が古典落語をやっても様にならん、無理なことしてまで女性の弟子はとらへんというて断ったんです。ところが、弟子にしてくださいとあんまししつこいので、「君、車の運転できるの」と聞くとでけへんというので、「そうか、うちは運転できる子しかとれへんのや」と言うたんですわ。そしたら、すぐ島根県へ行って2週間の講習受けて免許を取ってきよったんですわ。それだけの根性があったです。それで私、とったんですわ。

で、一番初めにその車に乗ったのは、私ですわ。他の弟子が「師匠、あやめの車に、よう乗りはりましたなぁ!!」と言われましたけど、それがねぇ、一番初めに乗ったのが高速道路で、南森町に行く線と本町に行く線と交差になっているところがありますでしょう。そこのところ走った時には、さすがに窓開けて、顔出して「すいまへん! 慣れとりまへんねん、すんまへん、すんまへん」と言って走ったのを覚えています。いまだにあやめも、師匠にあれやってもろたさかい、どうにか走れましたっていうてます。

それと、毎日放送行くのに、吹田の方を走ってたときに、近道やからっていうて、運転も慣れてないのに細い道を走ったさかい、溝にはまってしもたんだ。そこが、辺鄙なところで、ほかに車も走ってない。携帯電話もないときですから、どこから電話したらええかわからんというときに、ほっと見たら、工場があったので、頼んで少し遅れるかもしれんと電話かけさせてもろて、そこからタクシー呼んでもらって放送局に駆けつけたそうです。暫くしてから、あやめが到着しましたんで、よう来れたなぁというたら、工場に4、5人いたはったから、みなでクルマ担いでもろたっていうてました。弟子の運転だけでも、いろんなことがぎょうさんおましたなぁ。

Q;そんなときに、師匠は怒らはれへんのですか?

怒るというよりは、あほらしなってくることが多いんですわ。ようこんなん知らんと乗ったなぁ、俺は馬鹿やったなぁと自分を反省することが多いですなぁ、ハァハァハ・・。

Q;これからの、上方落語はどうなりますか?

先のことは、先の人にまかせて、今までやってきたことを大事にしたいなぁということしかないんですわ。
先にどないなりますかと聞かれたら、先よりも現在が大事や、今が大事やといいます。先を見つめながらやっていくというのは次の世代やと思うんです。次の世代の人には、やはり先輩から受けた芸を継承していく"人作り"だけはちゃんとして、次に伝えてくれよとしかいいようがないと思います。そやけど、先になっての落語はと問われれば「不滅です!!」としかいいようがありません。形は変わってくるかもしれまへんけど、絶対に滅びることはないと信じております。





怒涛の浴衣軍団、空堀商店街から高津宮へ進軍 〔15;30〜17;00〕

文枝師匠のお話しに大笑いして盛り上がって、高揚した気分のままに、全員がワラワラと表へ出て、空堀(からほり)散歩。ン十人という多勢がウチワ片手に、カランコロン下駄音高く往くのですから、そりゃあ目立ちました。なにせ昼の日中にアーケードの下をカラコロ ×70余足分ですから、みな振り返るし、ナニゴトかと店の奥から飛び出てくる店番のおっちゃんも。ま、これだけでも"快挙"でした。

                 露地の入り口
                      ↓



ルートは、まず「練」を東へ出て、お祓(はら)い筋を右折する。途中の右側に、このあたりじゃチョイとは知られた、昔のまんまの路地(ロウジ、と発音するらしい)の入り口"石丸会門"がある。ほんとに幅1・7bほどの石畳の路地に沿って、コの字に長屋風の軒並みが続く。まんま昭和初期様式(ウ〜ンもっと古いかも?)である。いまもちゃんと住人のかたがすんでらっしゃる街だから、皆静かに歩きましょうネ( シー!)。いちばん奥に、石丸大明神と玉姫大明神の社がまつってある。これが、あらためて感激と感心したくなるくらいの戦前スタイルなんですねえ。赤い幟に鳥居がちんまり、いわくあり気で。いやア、後日あらためてゆっくり見せてもらおうと思いました。

会門を出て、南へ進むとあの空堀商店会のアーケード屋根( 昭和25年完成 )が東西800bに伸びている。昔ながらの風情の履き物屋やお茶園、こんぶ店やお好み焼や、食堂やふとん屋等々賑やかに打ち並ぶ。ひと通りも多くいきいきしてるのがよっく分かる。あの日本一長いといわれる天神橋商店街といい、大阪は昔ながらの商店街が現役のまま活躍してる土地柄なんですねえ。とくに"からほり"は伝統的な界隈文化が失せていない、キーワード"なつかしまち"という言い方がぴったり。ここを、ゆかた姿の文枝師匠を先頭にカラコロ ×70余足分が行進したのでした( 師匠、ごくろうサマ! それはそれは壮観でしたヨ)。

そのまま一同は民族大移動よろしくゾロゾロゾロ カラコロカラコロと、さらに西の高津宮へ。この高津(こうづ)さん、なにをかくそう大阪市歌にも「高津の宮の昔よりー 世々の栄を重ねきてー 民のかまどに立つ煙イ――」と唱われるように、炊飯の煙の立つのが少ないことをここから眺め、民の困窮を察して、3年間も諸税を停止され救われたという、あの伝説の第十六代仁徳天皇の宮があった(?)とされる由緒深い場所。江戸時代には商売繁盛の神さまとしてことのほか賑わったお宮さんとかで、今も芸能関係者には大人気とか。

わたしら、芸能人ではないけれど、なにやらご利益ありそうな佇まいに、ちゃんとお神酒一升を差し上げて、きちんと一同御払いを受けてまいりました( ハラダさん、あの巫女さんのは「舞い」とはちゃいまっせ。天上の神さんを降ろしてはんのヤ )。その後、宮司さんにお宮の縁起と由緒と歴史とナンヤカヤを30分ほども拝聴・ ・ ・そうそう、ここに縁結びに霊験あらたかな"相合(あいあい)坂"と、むかし三下り半の石段になっていたとかで"縁切り坂"という不思議なものがありまして、アナタ知ってました? で、明治時代まで、この坂を降りたところに、惚れ薬"イモリの黒焼き"を売ってる店が二軒もあったんだとサ( ヘンなの!!)。

―― で、一同はお払いを受けてとっても清浄になったところで、再び「練」の2階にもどり、これも精進落しと云ってよろしいのでしょうか、「ナンデわし、こんなトコ居んねやろ・・」という文枝師匠のツブヤキ( ぼやき?)を聞きつつ、大宴会へなだれ込んだのでした・ ・ ・ちょっと他にない贅沢な時空であったことだけ、最後に書き加えておきますネ。それと、前夜来降る梅雨のさなかのハズなのに、この時ばかりは雨も止んで、高津さんのご利益でしょうか、みなさん善男善女ぶりを発揮したのでした。   




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