日  時:2003年 1月 12日(日) 
講 師: 文楽人形遣い  吉田蓑太郎 氏 

  "襲名"、名を襲う、伝統文化を継承する流れのなかで、芸の命を現在に蘇らせ、次代に伝える襲名披露の舞台に間もなく立とうとする人がいる。文楽の人形遣いの家名・桐竹姓の元祖、"桐竹勘十郎"を襲名する吉田簔太郎氏、50歳。2003年、桜の花が咲き始める4月に大阪で、新緑の5月には東京で、桐竹勘十郎襲名公演の大舞台を踏む。
 初代桐竹勘十郎とは、江戸時代、立役で人気を呼んだ虎屋座の人形遣いで、桐竹の流れは今日も文楽の舞台を飾っている。

 父は、人間国宝二世桐竹勘十郎、2歳年上の姉は女優の三林京子。物心ついたころから、人形と人間に囲まれていた。内弟子もいた頃は、始終家には遊び相手になる大人が誰かいた。父は酒が好きで、涙もろく、豪快な人だった。酒が入るとだれかれとなく家に呼び、いつもきまってちょっとした宴会になる。芸人仲間ばかりか、舞台の裏方さんにも声をかけることは忘れなかった。周囲から慕われる親分肌の父と、そんな芸人一家を影で支える母親は、父や芸人仲間の交流を楽しんでいるかのように、いつも笑顔で家事を遣り繰りしていた。

 父も戦争を体験していた。12歳で桐竹紋十郎の弟子・紋昇と名乗り、さあこれからという時に徴兵、戦線を駆け回ることとなる。どうにか生きて帰ってきた大阪で、父はまた人形遣いとして舞台に立った。昭和38年には文楽協会が設立され、文楽は伝統芸能として継承されていく。娯楽の主流が映画やテレビに移り、文楽を鑑賞する人も、後継者も激減していた。昭和41年5月、約60年ぶりに「絵本太功記」が通しで上演されることになる。登場人物が多い割には、遣い手は27名。これでは人手が足らない。世は高度成長期時代、新しい職種が若者を吸収し、文楽の人形遣いに弟子入りする人などおらず、若手といっても20代後半から30代に差し掛かっていた。急遽、6名の若者が集められた。父に「おまえも、ちょっと手伝え」と声をかけられた。中学二年生の春だった。命じられるままに、小幕を開けたり、足を持ったりと舞台に立った。父の真剣な顔をまじかにみた。豪快な立ち回りを舞台の裏から息を呑んで見入っていた。父達の遣う人形の一挙手一動に感嘆の声をあげ、喝采を送る観客の顔を幕の間から眺めながら、「これは凄い!」と痛感した。 
 それが切っ掛けで、舞台を手伝うようになって1年、進路を選ばなくてはならない中学3年生になっていた。私の進路については、父は何も言わなかった。「人形遣いになろうと思う」と言うと、父は当時新進気鋭の若手、簔助師匠に弟子入りするように薦めた。親子だと互いに甘えが出ると考えての事だったのだろう。

 弟子入りすると、挨拶のことば使いから、師匠の身のまわりの世話、先輩達の世話、周囲への気配りは、それまでの比ではなかった。文楽の三人遣いは、足遣い、左遣い、主遣いが、自分の役目を掴みながら、すべて阿吽の呼吸で、一体の人形を3人が息を合わせて遣う。技術を頭で覚えるのではなく、人形に出来るだけ多く触れて、身体に染み込ますしかない。物語にそって人形がただ動くだけでなく、人間の情を人形を遣ってどう表現するか、人物の役どころ、性根をどう表現するかということが大きな課題で、気が休まるときがない。人形を遣うことは、「自分との闘い」の連続でもあり、「醍醐味」でもある。

 父が昭和61年に66歳で亡くなって、17年。一期一会の舞台の上で、簔太郎と名乗り人形を遣ってはや36年、簔助師匠から薦めていただき、今年、三世桐竹勘十郎の名を襲名することになった。父、二世桐竹勘十郎は、弁慶などの荒物の立役(男の主役)に人気があり、また滑稽な役柄も得意としていた。三世桐竹勘十郎襲名は、暫く名前を預からせていただくということなので、名跡を汚さないようにという責任は重い。父が「人形遣いに立役とか、女形遣いとかいうもんはない。得意の役はあってもいいが、どんな人形でも、遣えんようではあかん」とよく言っていたが、これからも様々な役にチャレンジし、三世桐竹勘十郎として、お客様に楽しんでいただける舞台を勤められるように精進していきたい。



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