上町台地を歩くPART2

日  時:2002年 5月 18日(土) 午後1時〜午後5時
講 師: 郷土史家 村田隆志氏


大阪、この地はまさに日本の歴史の交差点であり、海の玄関口としてさまざまな人々が行き来した舞台でもあった。仏教も伝来した。奈良・東大寺の大仏建立から、お盆や葬儀に至るまで今日の日本人の日々の暮らし、私たちの精神文化にまで多くの影響を与えることとなる。その日本人の心のよりどころとなる仏教。大阪に住む人には親しみ深い寺院の一つとして、四天王寺は聖徳太子がその門を開いてから日本の仏教伝来の道標として深く長くその歴史を刻んできた。
今回は、知っているつもりの四天王寺と、瓦版で連載していた大阪在住のベルギー人、ジョンカメンさんの著書「大阪の伝説ガイド」で紹介された江戸時代一声を風靡した三大遊女の一人夕霧の墓に参った。

「一心寺」
法然上人が文治元年(1185)の春、有名な慈鎮和尚の請により四天王寺西門の坂のほとり、すなわち古来「荒陵」(あらはか)と呼ぱれてきた茶臼山近辺の現在地の草庵で日想感(浄土は西方十万億土にあり、春秋の中日の陽の沈む西の空に、浄土の光景を見ることができる)を行じられ、後白河法皇も四天王寺参拝の途次、この草庵を訪ねられ、上人と床をならべて「日想感」を修められた。日想観とは観無量寿経に説かれる極楽浄土観法の第一観のことで、その折、法然上人は「あみだぶといふよりほかは津乃国のなにはのこともあしかりぬべし」の歌を添えて、草庵の西の壁に「南無阿弥陀仏」と記され、その書は今目に伝わり、「難波名号」として一心寺の貴重な宝物として守り続けられてきた。その庵の跡に、慶長元年(1596)三河の僧、本誉存牟上人がここで千目禁足、昼夜不眠の行を修め寺を興し、その一心称名をもって寺名とした。明治初年にお骨を使って10年ごとに阿弥陀の骨仏が造られ、納骨寺と呼ばれるようになった。

一心寺墓地
●小西来山(1,651〜1716)句碑
「時雨るるやしぐれぬ中の一心寺」境内に「甚々翁之墓」あり。薬種商小西六左衛門の子、西山宗因に俳諾を学び18歳で家業を弟に譲り独立、晩年は今宮の隠居、その作品は平明で蕉風に近い。
●本多忠朝墓
「三光院殿岸誉良玄居士」(1615年5月7目没。24歳)徳川四天王の一人、本多忠勝の次男で出雲守。19才の時、関が原の戦いで軍功を
上げ5万石を拝領,夏の陣の最後の決戦で天王寺口
先陣大将として、敵の毛利勝永軍4千に挑み、壮烈な戦死を遂げた。前日の戦いで遅刻した汚名を注がんと、死を決していたという。彼は相当な酒豪であったので、酒の過ちと宣伝されて、酒封じの神として崇められている。周りの墓は共に討ち死にした小野勘解由、青山五衛門ら9人のもの。
●八代目団十郎の供養碑
嘉永7年(1854)8月6日大坂中座に出演中、父の海老蔵の不義理の後始末の処理に心労が重なり宿舎で自殺した。時に31歳。
●玉雲斎貞右墓
江戸中・後期の狂歌師で、姓は雄崎、名は勝房。通称尼崎弥兵衛といい塩魚問屋を営んでいた。芥川貞左に師事して始め混沌軒国丸、のち、玉雲斎貞右と称し、門弟千三百人、大阪狂歌歌丸派の祖とされ、寛政2年(1790)卒58歳。

「四天王寺」
和宗総本山 聖徳太子の戦勝祈願により、推古天皇元年(593)に官寺として建てられたもので、その伽藍配置は「四天王寺式」と呼ぱれる。歴史上いくども戦火・天災に見舞われ、現在の中心伽藍は飛鳥様式で旧位置に、昭和38年に復元再建されたもの。江戸時代の建造物としては本坊方丈と西通用門、五智光院に元三大師堂、石舞台の6棟で、重文に指定されている。
他に国宝6件、重要文化財は6棟を含み24件、重要無形民俗文化財は聖霊会の舞楽、府の有形文化財が3件と、数多い文化財の宝庫である。
1月14目の「どやどや」4月22目の「聖霊会」など行事が多い。


四天王寺墓地
●本木昌造記念碑
昭和60年再興む明治3年大阪に活版所を開設。鉛活字の始祖とされている。明治8年52歳で卒。
●中川万次郎
明治38年6月20日、堀江の貸座敷山海楼で起きた「堀江の六人切」の犯人。養子にはいったものの、置屋を営む姑や嫁、さらには芸妓にまで蔑視されるのに憤慨し、次々と惨殺、この事件で17歳の芸妓津満吉が巻き添えに遭い両手を切り落とされたが、一命を取り留め大道芸人を経て、口に筆をくわえ書を書くなど、後に大石順教尼になり、犯人となった中川万次郎の供養のため墓標を立てる。辞世「昨目まで鬼の我をも弥陀頼み、今目より仏になるぞうれしき」
●菊原琴治
碑文は谷崎潤一郎。「春琴抄」のモデルといわれ。娘は初子。
●元三大師堂
元和の建物で重要文化財。天台密教の創始者、慈恵良源を祀る
●高橋多一郎父子の墓 
桜田門外の変の関係者で大坂にて幕使に追われ、自刃。「怨霊消滅」の元の墓は弔った小川欣次兵衛の建立で、墓の両面に辞世が刻まれていた。「鳥が鳴くあづま健夫の真ごころは かしまのさとのあなたとぞ知れ」
左:多一郎    「出たたんとすすむ心をとどめ置きて ひるゑするのもまた君のため」
右:庄左衛門  「高橋君元榮之地之碑」題字は御川斉昭、(「鳴呼烈哉 高橋父子殉死地」) 多一郎は15石5人扶持の徒士目付
●坂田藤十郎
重誉一室信士 宝永元年(1704)11月1日卒。大正8年、菊池寛の「藤十郎の恋」が雁治郎主演で大当たり、これを記念して松竹の白井らが発起人となり供養墓を建立した。藤十郎は芸達者で延宝6年(1768)34歳の時「夕霧名残の正月」の藤屋伊右衛門役で名声を得、47歳から近松と組んで数々のヒット、宝永11年63歳で卒。
●菅美紀子墓 
南の大茶屋、富田屋の看板芸妓・八千代。大正6年29歳で38歳の貧乏画家の菅楯彦と結婚し話題となり、37歳で卒。辞世「生まれ来て長き契りと頼めども あすをも知らぬわが命かな」

「浄国寺」

●タ霧墓碑
「花岳芳春信女 延宝六年正月六日没 扇屋四郎兵衛 此塚は柳なくてもあわれ也 夕霧墓 日人誤破之 一花一水 則病既退 文久三年七月催行之」。此塚の句は夕霧没後11年の元禄元年(1688)に鬼貫が墓に詣でて詠んだもの。
夕霧は京都島原の宮島甚三郎抱えの遊女だったが、寛文12年(1673)、21歳で大坂新町の扇屋四郎兵衛に迎えられ大評判となった。美人で情けが深く、その教養深い人格に、西鶴なども筆をつくして褒めなした。しかし美人薄命の定め、僅か6年後の延宝6年(1678)、秋からの病が募り扇屋の座敷で27歳の命を閉じた。俳譜も嗜み「ちごの親手傘いとはぬ時雨かな」時雨に我が子を守ろうと両手で傘をつくる親子の様子を優しい眼差しで描く句を残している。死後翌月「夕霧名残の正月」が坂田藤十郎の伊左衛門、霧波千寿の夕霧で上演、大評判となり、以後近松まどによって幾度も作晶が作られ、藤十郎は生涯18度も演じたという。
●升六墓碑
江戸後期の俳人・通称升屋六兵衛。号黄華庵。大坂の高津に住む、不二庵二柳の門人で小林一茶と交流があり、寛政7年(1795)一茶が来坂したとき、升六宅にて寄宿して大坂見物をしている。文化13年(1816)卒。


            
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