上方講談による大坂夏の陣・冬の陣の戦況解説

講師:上方講談師 旭堂南鱗 氏
日時:2001年10月16日(火) 19:00〜21:00
会場:ドーンセンター

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 講師紹介:旭堂南鱗(きょくどうなんりん)
本  名 : 今西久幸
生年月日 : 昭和25年8月1日
出  身 : 大阪市阿倍野区
職  種 : 講談
趣  味 : スポーツ観戦(特に相撲・野球)
芸  暦 :
・ 高校卒業後、サラリーマン、自営業を経て昭和51年4月三代目旭堂南陵に入門。旭堂南幸の名を貰うが、すぐに南光と改名。
・ 昭和59年6月、東京国立演芸場「第19回花形若手演芸会」新人賞銀賞を受賞。
・ 昭和63年5月、旭堂南鱗を襲名、真打に昇進。
・ 大の相撲ファンで、大相撲開催中、MBSラジオ「待ったなし大相撲」にレギュラー出演。(平成3年11月場所〜昭和11年3月場所)
・ 講談(本芸)の他、大道芸(がまの油売り)、講演、各種司会、史跡巡りの講師など。
・ 「ぼちぼちいこか、そのうち何とか成るやろう」がモットー。



秀吉が築いた大坂城を盾に。
         大坂冬の陣では和解


●関が原の合戦で勝利をおさめた徳川家康、慶長8年(1603)、征夷大将軍となり、名実ともに.1となる。そして2年後の慶長10年、三男伜秀忠に将軍職を譲る。将軍職が世襲されることで、豊臣家が徳川家の下になることが明らかになった。70の坂を越える家康は、いよいよ最後の戦いに乗り出そうと決心した。すでに、征夷大将軍に任じられていた江戸に幕府を開き、天下に号令する立場を手中にしているが、目の上のこぶは豊臣秀頼と淀殿母子。

 秀頼が大阪城を出て、地方の一大名として過ごしてくれるのなら、今戦に訴えなくても天下は丸く治まるだろうと期待して、天下分け目の関が原以後、今まで辛抱強く待ってきた。しかし、70になって、寿命と追っかけっこをしなくてはならない苛立ちがピークに達すると、もう待ち切れない。そこで、二代目と定めた秀忠に征夷大将軍の官職を譲ることによって、もはや豊臣氏に政権を私はしないぞという意向を示した。

→何故、家康が辛抱したか。加藤清正、福島正則、浅野幸長といった秀吉子飼いの武将が健在だったからで、不用意に大阪城を攻めれば、加藤、福島たちが大坂方につくだろうし、そうなると太閤恩顧の武将がいつ反旗を翻すかわからない。
 家康は、必ず勝てるという成算のない戦いはしない手堅い男である。そこで、大阪城を守る、人と金の切り崩しに専念した。
「人」→慶長16年が加藤清正、すこし前に浅野長政、慶長17年、池田輝政と続いて急死。秀頼を守る人垣が次々崩れ去った。これで豊臣家離れが加速した。

「金」→豊臣の莫大な遺産を消費させる。家康の巧妙な謀略。豊臣の家運挽回の祈願や、一族の供養にかこつけて、神社、仏閣の修造を秀頼に勧告する。慶長11年、伊勢神宮宇治橋の造営、12年、北野天満宮、13年、鞍馬寺、14年、出雲大社、18年、金戒光明寺の御影堂、河内観心寺の金堂の修築、17年京都方広寺の大仏殿の再建。
太閤お貯えの金銀も、この時底をついたといわれる。諸大名に命じ、秀頼の出費を助力することを禁止。
19年8月、方広寺大仏殿再建。その鐘銘に家康がケチをつけ一大事件となる。金地院崇伝が摘発。「国家安康」「君臣豊楽」家康の二文字を分断して、豊臣家のみの繁栄を願っているのではというこじ付けに対し、豊臣家の家老片桐且元は伏見での外交接衝で、
  ・ 秀頼の江戸参勤。
  ・ 淀殿を人質として江戸へ送る。
  ・ 秀頼の大阪城退去と国替。
延命策として帰城後、報告するが且元失脚、当然秀頼や淀殿が、こんな要求をのめるはずもなく、ここで、徳川と豊臣の外交断絶。

 東西手切れとなり、19年10月1日、家康は大坂討伐を決意。諸大名に出陣を命じる。近江、尾張、美濃の大名たちが先陣となって大坂へ向う。
一方大坂方も、食糧を徴発し、諸国の浪人を招き入れ、武器、弾薬を集めて篭城順位に入る。大名への依頼は秀頼、淀殿、大野治長。織田有楽などが、それぞれ手分けして支社を送り、大坂救援を頼んだが、誰一人として、大坂の危急に馳せ参じるものがなく、反対に皆、徳川幕府に誓書を提出し、他意なきを示した。→いつの時代も、いざとなれば我が身かわいさにかわりがない。
 その代わり、関が原で改易された西軍の元大名や、その浪人が続々と大阪城に集まってくる人たちにとて千載一遇のチャンス。主だったものは、真田幸村、長曽我部盛親、毛利勝永、後藤其次、明石掃部、塙直之。豊臣譜代の衆は、大野三兄弟(治長、治房、治胤)織田有楽、青木一重、速水時之、真野頼包、木村重成、薄田兼相等約三万人。※

そのうちに、徳川家康は約二十万の大軍を指揮して、19年10月11日に駿府を出発。11月18日、江戸からやって来た将軍徳川秀忠と茶臼山で合体。大阪城を包囲、11月19日、大野治房らのたてこもる福島砦の攻略で、大坂冬の陣が始まった。

※ 大坂方の兵力は約7万が浪人衆、したがって統制が難しい。豊臣家には彼らを統率できる器量人がいない。それならば経験豊富な浪人衆の会議にまかせればよいものを、それでは豊臣のプライド揺許さない。
真田、後藤らは東西分断作戦を主張する。徳川の先手を打って京都、奈良を占領。瀬田で持久防御することにより、朝鮮を掌握するとともに日本を東西に分断し、豊臣家に好意を寄せる西日本の大名を味方につける。→篭城よりも有力な作戦であるが、大阪城に頼る淀殿らに否決。※

徳川軍は大阪城周辺の砦を次々と落としてゆく。
11月23日、後藤。木村重成隊が、城の東方、鴨野、今福方面に出撃。上杉、佐竹軍と冬の陣最大の激戦を展開。→西軍相譲らず、勝負がつかず終結。
又、真田幸村は大阪城唯一の弱点といわれた南面の城外に真田の出丸を構築し、徳川を徴発、攻め手の前田利常、井伊直孝、松平忠直、藤堂高虎らを、散々に打ち破り撃退している。(真田の抜け穴)
徳川20万、豊臣10万と兵力の差は大きかったが、難攻不落の大坂城をバックに大坂方が善戦。徳川方有利の状況の中、家康は和議を提案。難攻不落の大坂城は一筋縄ではいかない。城攻めが長引けば、どんな不測の事態が起こるとも限らない。力攻めより謀略の方が効果的であると判断。
百以上といわれる大砲を大坂城に打ち込んだ。破壊と言うよりも心理的効果を狙ったもの。これが駄目なら徹底的に攻撃と、家康は二段構えの巧妙な戦略を用いた。
これがまんまと成功、淀殿は恐怖にかられて和議を受諾。二十二才の秀頼は、太閤秀吉の忘れ形見と言うだけで将兵を指揮する能力はない。大野兄弟、織田有楽は所詮、小姓、茶坊主の器。淀殿の存在は重荷になれ、少しもプラス要因はなく、ただ足手まとい。譜代の衆と浪人の間にも、戦術の統一を欠く。女性が事実上の総司令官という大坂方のウィークポイントを、見事に家康につかれたことになる。すべて敵情を見抜いた上で、和議を持ちかけた。有楽が斡旋を引き受け、治長も「いちど和議して、時期を待つにしかず」秀頼をはじめ、浪人者の諸将とともに、和議に反対だったが、淀殿、有楽、治長等の意見に傾いてゆく、和議が成立。大坂方の領地も、秀頼、淀殿、浪人どのの身上ももとのまま、但し、織田有楽と大野治長が人質を出し、家康の大坂出馬のしるしとして、大坂城の総構えの堀を埋めるということで、東西の和議が成り立ち、誓書を秀頼が受け取り、秀頼も、今後とも、謀反や野心など起こさぬという誓書を呈出。

                 右上へ →
                           
淀殿・秀頼と浪人たちが敗れた・大坂夏の陣

 徳川は、外堀だけでなく内堀まで埋め始めた。大坂方では「約束が違う」と抗議するものの、相手にされず、大坂城は本丸を残して見る見る丸裸にされてしまう。
そのために、憤激した大坂方では再び挙兵準備。それを見た家康は和平にそむく挙兵準備と咎め、秀頼を大和か伊勢に移すか、浪人どもを追放するか二つに一つを選べと言う最後通告。大野治長は「ジリ貧のままで再び戦えば、滅亡は免れまい」として平和論を唱えるが、結局主戦論が大勢を占め、浪人衆は、名誉ある死に場所を求める気持ちが強かった。→頼りに出来るのは浪人衆だったから。
20年(元利元年)4月26日。大野治房の一隊が大和に乱入。郡山城を落としたことで宣戦布告。大坂夏の陣の幕が切っておとされた。大坂方は篭城戦が無理な為、5万5千の兵力を、徳川方が全部終結する前に、積極的に攻撃する方針でのぞんだ。
29日、和歌山から浅野長晨(5千)が出発すると、それを迎え討つため、大野治房らが二万で出撃。しかし功を焦った先陣の塙団石衛門、岡部大学が無理に仕掛けて討死、浅野勢を取り逃す。

夏の陣(河内方面)を仕切った後藤又兵衛、毛利勝永、真田幸村の三将は、6日の暁を期して、道明寺方面へ打って出る手はずだった。大和から関屋、亀ノ瀬を経て河内に進出してくると見なされる徳川勢を国分あたりで迎え撃つ作戦だったが、徳川勢はすでに5日の夜、関屋、亀ノ瀬を超え国分を中心に陣を取っていた。翌早朝。5月6日、西軍は大和方面から進撃してくる東軍を迎え討つため、国分を目指して進んだ。しかし、東軍の先鋒水野勝成、伊達政宗ら2万3千の兵の進軍が速かったため、小松山に手勢、2千8百人を配置。後続部隊がこなかったため、僅かな手勢が大軍相手に奪戦、山上の利を得ていた後藤隊が最初のうちは優勢だったが、数にまさる東軍に次第に追いつめられ、伊達隊の放った鉄砲で胸板を貫かれた又衛は討ち死。時刻は正午近く、実に10倍近い敵と、7〜8時間に渡って戦ったことになる。又兵衛が討死を遂げた頃になって、誉田の八隊に陣取っていた。薄田隼人率いる一隊が、ようやく道明寺戦線に加わった。先の冬の陣で伯労が淵の守りについていたが、遊女屋で泥酔し、前後不覚になったとき敵襲に合い砦を落とされ「橙武者」と言う汚名を豪った兼相は、その汚名をそそがんと奪戦したが多勢に無勢、かれもまた鉄砲に当たって討死。

では、何故真田幸村隊と毛利勝永隊が遅れたのか? 予期せぬ濃霧の為、約束の時限に遅れた真田、毛利隊。道明寺へ到着するとすぐに東軍と交戦。その中でも赤備えの真田隊3千の働きは凄まじかった。西軍の後藤、薄田らを打ち破って意気上がる伊達の片倉重綱隊に多大な被害を与え、後退させる事に成功。午前中の戦功を失いたくない伊達政宗は、他の諸将と語らい。東軍の進撃をストップさせる。城からの退却命令を受けた西軍は次々と引き上げを開始するが、東軍は追撃してこない。この時幸は「関東勢百万も候え、男は一人もなく候」と言ったという。
道明寺の戦いがあった同じ5月6日、豊臣譜代の木村長門守重成(彦根の墓の話)は4千7百の兵を率いて、午前1時頃城を出て、若江に向った。これより少し遅れて長宗我部盛親も5千3百の兵で八尾へ出発。世に謂う、八尾・若江の戦い。

八尾・若江の地は、長瀬川、玉櫛川にはさまれた低湿地帯。この地では大軍の動きが困難になると計算しての西軍の戦場設定であった。八尾の地でぶつかったのは、長宗我部盛親5千3百と、東軍藤堂高虎5千。長瀬川付近に陣を張った長宗我部隊は、その地の利を利用して思うさまに戦い。藤堂隊を窮地に陥れるほどの勢いを見せた。→この戦いで藤堂隊は部将6人、兵3百余人を失うと言う甚大な被害を受けた。

一方、木村重成は若江の地に、4千7百の兵を率いて布陣した。この木村隊と対戦したのは藤堂高虎とともに東軍の先鋒をつとめる井伊直孝軍3千2百人。直孝は正面から突撃を敢行。木村隊も必死に防戦をしたが、ついに井伊隊に打ち破られ重成は討死。きちんと整髪し、伽羅の香りさえ漂っていた重成の首を見た家康は、大いに感嘆したと伝えられている。
大和から河内へ入ってくる徳川軍に対して5月6日、大坂方が各方面で迎撃する。
徳川軍の進軍を止められなかった大坂方は、5月7日、最後の決戦。主戦場となったのは、天王寺、この方面は徳川譜代の本多、小笠原、神原らの大名を配置。
この決戦に命をかけた本多忠朝、冬の陣で露払いの攻撃を命じられた時、家康に攻め口の変更を願い出て叱責。信州松本の小笠原秀政、前日、木村重成と戦ったが、戦機を逸して、家康から手厳しい叱責を受けた。二人ともこの上は、死をもって酬いる他なしと決心。敵中へ飛び込んで壮絶な討死を遂げた。対する大坂方は、茶臼山に真田隊、天王寺に大野治長、毛利勝永が布陣、毛利隊と本多隊の衝突で口火が切られた。東15万対西5万真田隊の奮戦めざましく、家康の本陣に三度突撃し、家康が慌てて逃げ出す一幕も、最後は多勢に無勢、勇将真田幸村もついに戦死。三時間の激戦の末、大坂方は敗走、徳川軍が城内へ雪崩れ込み、天守に火が入って落城。
淀殿・秀頼母子は秀吉が一代で築いた夢の城"大坂城"内で自害。ここに豊臣家の最後を迎えた。








参加者:(敬称略・アイウエオ順)
一般:
磯島一世・小川忠夫・尾崎部夫・中島操・
西川豪一・田中淳子


塾生
井上章・鍛治睦子・北村千代江・工藤幸二・
熊谷京子・佐伯恵美子・杉山英三・名取寿奈子・
原季美子・原田彰子・平野康子・平野幸夫・
星見夫美・森川道子・森川千世子・森本由美子・吉本和弘



お手伝い:旭堂 花鱗(きょくどう かりん)
本名;競陽子●出身地:広島県安芸郡海田町
●生年月日:昭和52年8月31日
●平成13年4月、旭堂南鱗に入門。花鱗の名を貰う。
  南鱗の一番弟子として、日々修行の毎日。





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