薬の町・道修町と神農さん
講師:少彦名神社 宮司 別所俊顕
日時:1998年9月9日(水曜日) 午後6時〜8時半
会場 :
少彦名神社 3階ホール  

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 江戸時代、90%の薬種シェアーを誇った道修町 
 道修町は薬の町だから、薬を作っていたと思っていらしゃる方もあるようですが、道修町では薬を作っていませんでした。外国や国内から薬種(原料)を仕入れて検品(品質管理)し、公正な価格の維持等を行い全国へ流通させた元卸の一大基地でした。
オランダや中国から来た薬は、長崎から瀬戸内海を渡り大阪につき、検品し、北前船で北は秋田まで、南は九州まで船で輸送していました。江戸時代、道修町が取り扱っていた薬種は90%のシェアーがあったそうです。九州でも鹿児島は琉球貿易で、対馬は直接朝鮮と交易していたようです。それでも対馬藩は大阪に蔵屋敷を持っており、朝鮮人参を道修町に売り込んでいたようです。
 大阪が天下の台所と謂われたのは、米が大阪の蔵屋敷に集められ米相場がたったということもありますが、地子銀(今でいう固定資産税や営業税)が寛永11年(1634年)徳川家光の頃には免除されていたので、商売が発展していきました。
 株仲間は薬だけではなくありとあらゆる商売で組織されました。株仲間には、幕府から株仲間を作りなさいという「御免株」と、株仲間を作るので許可してくださいと幕府に申し出幕府にいくらか払いますという「願い株」の2種類がありました。大阪には、江戸時代には株仲間は2百ぐらいありましたが、明治5年にはなくなってしまいますが、道修町だけは今もその風習が残っています。

コレラ祓いの虎は少彦名神社のシンボル
 本神社のお祭は、今は11月の22日と23日ですが、江戸時代は9月の11日で、明治の始めは9月の9日、10日になり、明治5年に9月の21日と22日、明治6年に11月の2日、3日になり、明治10年に11月の22日、23日になります。江戸時代の日程が何故その日なのかということは分からないのですが、明治5年に株仲間の解散があって、株仲間が第一薬種商社に変わって行くのですが、その休日に合わせたのではないかといわれております。
 明治6年に祭りの日が変わったのは、旧暦から新暦に変わった為で、11月2,3日が22日に変わったのは、、明治10年に大阪でもコレラが流行したので、日を延ばせということで、22日、23日に変わったようです。本神社は、コレラとの関係が深く、江戸時代にもコレラが大流行し、道修町で始めて虎頭骨を主な原料に丸薬をつくりました。虎は百獣の王であり、虎の威を借りて邪気を祓う魔除けに象徴化されていきます。
 明治以降は、丸薬は神社では作らなくなりますが、張子の虎だけではお祭でも授与しております。

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適塾の緒方洪庵が道修町に大阪発の種痘所を開設
 江戸時代までの古文書は3千点、明治以降戦前までの文章を含めますと約1万の文書が残っております。不思議なことに、道修町焼けや大塩焼けの時も焼けず、大阪大空襲の時も焼け残りましたので、文書が残っております。これらの文書を通して、各時代の道修町の様子がよく分かり、株仲間の名簿や通帳などもありますので、ルーツが解ったり、薬の値段などを通して当時の相場がわかります。賄賂をはじめどのような付き合いがあったのか等を証明するような貴重な書物が現存しています。
 こちらの熟塾のテーマでもあります適塾の緒方洪庵は、道修町5丁目の大手町にある大和屋吉兵衛の屋敷を借りて大阪で種痘を行いました。
 緒方洪庵は医者ですが、国学者でもあったので種痘を行う前には必ず祭壇を設け、少彦名命をおまつりしてそれから始めたと道修町文書に記されています。

国際化の波が押し寄せる道修町の伝統
 薬の町といっておりますが、第一に医薬品、第二に化学工業薬品等試薬、食品添加物、生薬、漢方薬、香料、医療器械等です。医薬品と申しましても、病院で医師が扱う薬が主で、一般薬、家庭薬だけを生産しているメーカーは道修町からは離れています。また最近の社会的な流れもあり、薬の卸し会社の統廃に加え、これからはメーカーの統廃合も進み、更に外資系の会社が多く参入してきた場合、道修町の伝統をどう受け止められるのかということが心配です。
 既に道修町にも、外資系の会社も軒を並べ始めていますが、前の会社の引き続きで神棚を守り、お参りに来られる外国人もあります。
 日本の伝統をどう守り、どう伝えていくのか、今いろんな分野での課題かもしれません。
 何でも新しいものがよいというのではなく、古いものの上に新しいもののを築いていくことも大切だと思います。
 道修町は文化的にも、谷崎潤一郎の「春琴章」は道修町のある商家を描き、劇作家の菊田一男も道修町で丁稚修行をし、サントリーの社長も小西儀助商店(現コニシ梶jで修行をし、飛行機を考案した二宮宗八は今の大日本製薬に勤めており、陸軍に飛行機を造るように忠言しますが、受け入れられませんでした
 道修町にある会社の社長や会長がなくなられると、他社の社員も通りに並んでお見送りし、霊柩車を先頭にご遺族が乗車された車が、必ずこの神社の前を通ってお別れをされてから千里会館などの葬儀場に向かわれるという独特の風習がございます。

 今年のお祭りは、11月22日と23日で、朝10時から夜8時まで行っています。お時間があれば、是非お越し下さい。(原田彰子記)

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